東西冷戦の終結宣言の地へ 先日、ちょうど今世紀最後の皆既日食で沸くイタリアを旅してきた。イタリアは過去10回ほど訪れていたものの、シチリア島は初めてであった。それだけにどんな所だろうと、カターニャ空港に降り立つ前から胸が高鳴った。シチリア島というよりもシシリー島といったほうが私にはなじみがあり、アメリカのマフィアの出身地というイメージから、寂れた貧しい田舎町という既成概念を持っていた。そのイメージは空港に降り立ち、タオルミーナの高台にあるホテルに向かう途中で消えてしまった。 この世界的保養地として知られるタオルミーナを拠点に、高速道路が工事中でまだ未完成のイタリア本土側の海沿いにメッシーナを経由してパレルモというシチリア島最大の都市にレンタカーで出掛けたが、パリを彷彿させるその街の美しさに見惚れてしまった。帰りは、島を縦断する高速道路を利用してシチリア島を約一周しての700kmあまりのドライブは快適であった。イタリアの道路はヨーロッパの中では悪評が高く、日本の高速道路はそのイタリアをマネしたのではといわれる代物なのだが、シチリアではドイツやスイス・フランス並みとは言えないまでも、日本の高速よりは遥かに料金は安く、舗装状態も良くクロソイド曲線や標識も少なく、何はともあれスピードを気にしなくて走れる点では素晴らしかった。ただ、今の時期は真夏ということもあり、私もかつて経験のない外気温で、島の中央部は日中の最高気温47〜48度という灼熱地獄、日中は人っ気もなく、そんな暑さのためか、海岸沿いから離れた中央部は草木の生えない荒野が広がり、殺伐としたその山の頂上部の景色は今も鮮明に脳裏に焼き付いている。 その後、シチリア島の南に浮かぶ島国・マルタ共和国を訪れた。この島国のほうが私には興味深い地で、マルタと言えばかつては英国領であり、1989年12月に、当時のソ連のゴルバチョフ大統領と、米国のブッシュ大統領がマルサシュロックの沖合いに停泊した軍艦の中で会談を行い、東西冷戦終結の宣言をした歴史に名高い地である。思い返してみると、第2次世界大戦の終焉を決した会談が開かれたのはヤルタであった。1945年2月に米国のルーズベルトと英国のチャーチル、そしてソ連のスターリンが、第2次世界大戦の戦後体制を話し合うためにヤルタに集まり、ドイツと日本の処遇について取り決めた。 当時すでに、ポーランドやバルカン問題で東西冷戦が始まっていたことは多くの人が知るところである。そのクリミア半島の保養地であるヤルタからマルタまで直線距離にしてわずか1900km余りである。そのマルタ会談の記念碑を前にして、この1900kmが東西冷戦の始まりから終わりまでの熾烈な45年間を物語る道のりかと思うと、私の心はある種の感慨に襲われた。 またこのマルタ島は、世界遺産に指定されている巨石文化で有名で、そのすぐ側のコゾ島にある紀元前約3600年に造られたというジュガンディーア神殿は私の予想を超える巨石を配しての建築物であった。エジプトのピラミッドよりも約千年も古い時代に、何トンもある石を切り出し、鉄器も青銅器もないにも拘わらず、造り上げた神殿は、もちろん人類最古の巨大建築物の一つであることは言うまでもない。その石に刻まれた精巧な唐草模様やビーナス像、また神殿の緻密な構造を見るに付け、5600年も前にこれほどの技術を持っていた人なら、今の時代にタイムスリップして現れても1週間もすれば現在の生活に慣れるのではないかとの思いと共に、古代人の技術を前にしては人間の技術がいかに進歩しようとも、基本的な物の考え方や喜怒哀楽、さらに恋愛感情等は今も昔も変わらないものだということを実感した。 20世紀は環境破壊と大量殺戮の世紀 技術の進歩は産業革命以来の機械文明により飛躍的に進み、とくに20世紀のこの100年間が凄まじい。その技術進歩の跡は兵器の進歩と歩調を一にしており、人類の大量殺戮という残酷な歴史を生みだすと同時に、地球環境の破壊と資源の枯渇を招き、いつしか私たちが住む地球を、「無限の空間から小さなか弱い有限な星」に変えようとしている。 54年前の8月6日と9日は日本に原爆が投下された日である。第2次大戦も終盤を迎え、勝敗が決していたにも拘わらず、広島と長崎に予告なしに原爆が落とされ、一瞬のうちに何十万人という犠牲者を出した。その理由と必要性を考え合わせると、対日戦争の早期終結のためと言うよりも、ロシア革命以来対峙し続けていた資本主義VS共産主義が、第二次世界大戦終結後に再燃激化するとの予測を背景に、米国のソ連に対する威嚇のように思えてならない。 ベトナム戦争は当初、対仏独立戦争だった。それがいつのまにか米ソの代理戦争に様変わりした。当時、ソ連から中国へ、さらにベトナムへと社会主義革命が次々と広がり、このままでは世界全体が共産化するのではという危惧から、ドミノ理論が脚光を浴びた。しかし、私からみれば、核そのものがドミノ理論で拡散することに脅威を感じる。米国の核の独占が、核の使用の誘惑に駆られ使用されることへの恐怖が米国の核開発技術者をしてソ連に開発情報をもたらし、その結果ソ連が核実験に成功し、核が使用不能の兵器と化した。その後ソ連と中国が国際共産主義運動を巡る路線論争と覇権争いの激化から、中ソ国境紛争を起こし、ソ連の核の脅威に対抗して中国が核を開発。今度は中印国境紛争でインドが中国に対抗して核を保有。さらにインドとカシミール紛争を続けるパキスタンが先日核実験したことはまだ記憶に新しい。 まさに、ドミノ理論そのままに、順番に紛争相手国への核抑止効果のために核武装するという図式である。イスラエルにしても第1次から第4次まで、アラブ諸国と戦火を交えていたものの、潜在核武装国となってからは急に大規模戦争がなくなった。こうした事実からも、核抑止効果が冷戦をして第3次世界大戦となることを防いだ一つの要因であることは否定できない。米国にとって日米安保条約は日本の軍事大国化を防ぐ手立てであり、核ドミノを考えると「北朝鮮が核開発をすれば一転して日本が軍事大国核武装化に走る」と米国が懸念するのは当然と言えよう。 弱小国が大国に対抗して核開発を行えば、どんどん核が拡散していくことになる。そして、小さな紛争でもし核兵器が使用されるならば、その反撃としてまた核攻撃が行われ、その惨劇は広島や長崎の比ではない。20世紀に創出された技術は素晴らしい。自動車、飛行機、宇宙船に原子力、ハイテク、遺伝子工学など、人類の英知の結晶である。人が月に降り立てる時代にもなった。その反面、残酷で非人道的な核兵器を初めとした大量殺戮兵器も凄い進歩をみせた。20世紀は技術万能の時代であったが、また同時に壮大な環境破壊の世紀でもあり、サイクルしない技術が地球を破壊の渕へと追い込んでいる。 地球環境の保護が21世紀の命題 インドの人口が先日10億人を超えたという。中国やインドのような大人口を有する国が、欧米並みの生活を始めたら…、そう考えただけでぞっとする。排出される二酸化炭素やダイオキシンなどの環境汚染物質はどれくらいなものなのか、想像も及ばない。本来、技術は自然循環型であるべきで、雨が降って川となって海に注ぎ、蒸発して雲になり、そして雨となる。このようなサイクルが地球を無限の星として維持してきた。しかし、20世紀になってからは、人間が作り出し、排出する汚染物質により地球は有限となってしまった。原爆実験や原子力発電所の事故による放射能汚染、放射性廃棄物の深海への不法投棄、フロンによるオゾン層の破壊、硫黄酸化物による酸性雨、化石燃料の燃焼による地球温暖化など、うすら寒くなる話題には事欠ない。 地上には国境はあっても、大気や海洋には国境はない。瞬く間に世界に拡散していくことを我々は肝に銘じるべきである。これまでの度重なる様々な地球への仕打ちを考えれば、22世紀の地球の姿は、外気温48度の灼熱の中で私が見た、シチリアでの荒涼としたあの風景そのものではあるまいか。 今、新世紀を目前に控えて、私たち人類が真っ先にしなければならないことは、英知を結集して核拡散に起因する偶発的な核兵器使用による大量殺戮の防止と、それに伴う放射能や産業排出物による地球汚染を防ぐ手立てを考えることであろう。 地球環境の保護を第一に、地球規模の視点で物事を考え、未来に責任の持てる歴史観と世界観を持つ指導者が国民に未来に負担を強いるコンセンサスを求め、21世紀は地球環境保全に全世界を上げて全力で取り組まなければならない。なのに、相も変わらず宗教・民族・国境・社会体制を巡って勢力争いや権力闘争に今日も明け暮れている。 東西冷戦の漁夫の利の戦後経済発展を自らの力と誤認して、今なお不況を脱しきれずにいる日本。21世紀に日本がどうあるべきか指し示せない政治家のもと、本当に厳しい21世紀の荒海を我が日本丸は乗り越えて行けるであろうか。 地上最強を誇っていた恐竜もある日、忽然と地球から姿を消した。いつまでもサイクルしない技術開発を続けていると、そのうち手痛いしっぺ返しを食らうことになる。突然、人類が絶滅してしまう日が来ないためにも環境に優しくケアする技術の確立に今や人類をあげて取り組むべき時代に来たと認識すべきだ。 |
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