21世紀は人間工学、遺伝子工学、臓器移植産業花盛りの時代 20世紀も終わりを迎えようとする今、世の変遷ぶりには目を見張るものがある。今までの世紀に比べて、20世紀は世界的規模の戦争による画期的な技術革新の世紀であり、残虐で巨大な殺戮兵器(原爆など)の登場により大量殺戮が行われ、後半は東西冷戦による恐怖の均衡と、この冷戦に打ち勝つための技術開発と経済の拡大による壮大な環境破壊の世紀として、記憶されることだろう。 そして、21世紀の前半の2020年頃までは、東西冷戦の終焉で戦争技術の民間開放によるインターネットハイテク革命が花咲き実を結ぶ時代となり、その後は人間工学、遺伝子工学、臓器移植培養テクノロジーなどの産業により「若さと美容」、「健康と長寿」の技術が脚光を浴び、万人が豊かさを実感できる少子高齢化時代になる。 今世紀を振り返れば、冷戦終結までは重厚長大産業に家電製品、自動車などの規格大量生産と大量消費文明によりモノ作りを通しての既存優位で大型化・総合化を図った企業が繁栄した時代であった。その後は冷戦勝者アメリカの軍事技術の民間開放に伴い、軽薄短小・多品種少量生産に対応できる先端技術、ハイテクパソコンインターネット技術を取り組む産業が瞬く間に世界を席巻するとともに、経済のグローバル化により市場原理に基づく世界規模でのサバイバル戦で、分野別で世界ナンバーワンの技術とシステムを有する企業のみが勝利する厳しい時代となった。 株価は先読みするものであり、インターネット関連市場が急成長すると先読みした投資家が今、大儲けをしている。 今後21世紀の初頭まで、ハイテク・インターネット関連技術はますます進歩を重ね、産業領域を広げて情報・通信・流通・製造・販売を一新させ大きく発展するだろう。しかし、すでにその成長を先取りして上り詰めたアメリカのハイテクベンチャー株は、近いうちに暴落すると私は予測している。 それに替って今から株価の上昇が期待できるものは、前述したように、人間の生命や臓器にかかわる技術と産業であり、トイレで絶えず健康チェックされ、インターネット人間ドッグで健康管理されるとともに、住んでいるだけで美しくなり長生きできる住まいがいずれ登場する。 今は、手すりやバリアフリーなどで老人や障害者にやさしい住まいが脚光を浴び、様々な老人、障害者向けの設備の設置が義務付けられているが、究極の施策というならば、高齢者が若さを取り戻したり脚の不自由な人が健康な脚を取り戻し、いつまでも元気で働けることである。もし、自分の細胞を培養したり、遺伝子を操作することで、増殖した皮膚や手足を簡単に付け替えたり、あるいは悪い臓器を新しい臓器に素早く差し替えたりできたら、人間の暮らしはさぞかし豊かなものになるに違いない。肺に癌ができたので、新しい肺と交換してください、など、まるで自動車の部品を交換するかのように、臓器の交換や移植ができたら、年を取っても、臓器の機能低下による病気に悩まされずに済む。 人類は21世紀の初頭において地球環境管理システムの確立に成功するならば、人間の寿命はおそらく120歳、いや、150歳ぐらいまで伸びるのではなかろうか。現に、動物実験では小脳の一部分を移植したら、今まで機能していなかった機能が回復したという実験報告もある。そうなれば、高齢化少子化が叫ばれ、老人ばかりの暗い世紀として予見されている21世紀が、明るいものに見えてくることになろう。 古くなった皮膚や臓器や手足を交換してもらう。痛んだ身体部分を付け替えてもらう。そんなことが安々とできてしまう時代が来れば、ハゲ・デブ・ブスの人はいなくなり、障害者もいない。老人と若者の見分けがつかなくなる。肌の美しい綺麗な女性が増える。痴呆症の老人を収容する施設が必要なくなる。すべてが夢ではなく、実現するのだから、皆が豊かな人生をエンジョイできることとなる。 人の真価は創造力と歴史観・世界観に基づく倫理観で決まる 昔から、権力者が不老不死の薬を追い求めたという話は枚挙にいとまがない。人間がいくら富と権力を手に入れたとしても、手にすることができない最たるモノが永遠の命であろう。もし、寿命が永遠とまではいかなくとも、平均寿命が120歳位にまで伸び、しかも寝たっきりやボケや身体の不自由などと無縁で、若々しく健康で仕事に学習に趣味にと楽しく暮らせるとしたら、誰もが21世紀を待ち遠しく思うであろう。 ただ、将来、臓器や手足が簡単に交換でき、脳までもが移植できる時代が来たとしたら、人間とは一体何なのか、人間の価値とは何か、という問題に直面することになろう。遺伝子組み替えやクローン技術にしても、科学優先主義で道徳観は切って捨ててもよいのかという、倫理問題がクローズアップしてくるはずだ。 確かに、人間の身体の一部が交換できたり、脳に記憶チップを埋め込めたり、また年を取らずに若さを保てれれば、経験と知恵を有する人造人間が世に溢れ、すごい能力を発揮しあうかもしれない。おそらく、お金を払えば、健康で若い肉体も、何カ国もの言語に堪能な語学力、記憶力もあっさり買えるようになるかもしれないが、これらはかつて誰かが考えたものか、一定の方式に基づくものである。 しかし、このようなことによって本当に人間が幸せになるかどうかはわからない。人間の価値として私が最も大切と考えているものは、無から有を生み出す能力、かつて誰もが考えてもみなかったことを考える能力でないかと思う。 今からの時代は、人の真価は創造力と歴史観・世界観に基づく倫理観で決まる時代になると言えよう。 公明党票頼りの東京都知事選の茶番劇 21世紀の話は夢があるが、現在のニュースに目を向けると、世紀末の今は情けないことが目白押しである。その一つ、自民党の東京都知事選候補者選びの混迷ぶりだ。公明党の支持を得られそうな鳩山氏から相乗りを拒否された自民党が公明党の候補と言ってもよい明石氏を担ぎ出したら、今度は一旦辞退したはずの柿沢氏が立候補を再表明。他にも舛添要一氏など有力候補も名乗りを上げ、共産党にも勝ち目が出てきて今回の都知事選挙は予測が難しい。 自民党としては、自自連立政権を実現したとしても参議院では過半数を占めることができず、どうしても公明党との友好関係を図って政局を運営していきたい事情はあろう。しかし、公明党の票をあてにして、政策で都知事選を争うのではなくて、公明票を足し算して勝とうというのはいただけない。明石氏は公明党の候補と言ってもよい候補で、公明党の選挙協力を得られる人物ということで、選ばれたと言ってもよく、どんな政策を持っているかもはっきりせず、当選したところで、政治能力は青島都知事と五十歩百歩ではあるまいか。もちろん、鳩山氏、柿沢氏、舛添氏も青島氏よりは少しはましだとは思うが似たり寄ったりである。 せっかく自自連立政権が中央で実現したのだから、ここは政策で一致できる立候補者を擁立すべきではないだろうか。公明党の支持を得られる、得られないは二の次にして、きちんと政策理念を持った人物を立候補者として送り出すのが政府与党の義務であるというものだ。我を忘れて公明党頼りの数合わせに奔走し候補者選びに明け暮れる自民党の姿は、情けない。 政党政治とは、政治家が政策を掲げ、その政策に賛同する人が集まって党を作り、その政策を支持する国民がその政党に所属する人に投票し、その政党が国会で過半数を占めて政策を実行するものである。民主主義の基本はここにある。それが、自らの政策・理念も持たず世論調査で一番人気のある政策を自らの政策として公約に掲げ当選するなど、恥じ知らずな政治家がなんと多いことか。奇をてらって知名度だけで知事に就任した青島東京都知事や横山大阪府知事などは日本の恥である。しかし、横山氏は次期選挙へもまた立候補を表明しているにもかかわらず、対抗馬も立てられないとは実に嘆かわしい、これでは政党政治とは言えない。 東西冷戦が終焉した今、日本は自らの歴史観や世界観、国際的な常識も持てずに世界から取り残されつつある。不況風に煽られて国民は将来に不安を抱えている。いくら、21世紀の初頭に遺伝子工学や人間工学、臓器移植技術が発達して、寿命が伸び、老いや病の不安がやわらぐといっても、この政治の現実では日本にとって経済的にも国際的にもますます厳しい時代になるという危惧は捨て切れない。そんな状況下にあって、首都の知事選に絡む今回の候補者指名にかかわる狼狽ぶりを見せつけられては、明るい未来も興ざめしてしまうというものだ。こんな前哨戦を観戦させられた都民や国民は、すでに知事選を冷めた目で眺めていることは言うまでもない。この現状を打破するために、ここは既存の政党に頼らず最後の3日前あたりで石原慎太郎氏が打って出てきて圧勝してくれることに期待したい。 |
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