藤 誠志エッセイ
力の論理に立脚した平和


韓国沖に北朝鮮潜水艇
 またも、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の潜水艇が韓国領海に侵入し、だ捕された。意図的なものか、あるいは機関の故障で漂流したものかは定かではないが、私には“韓国領海で北朝鮮の潜水艇”と聞いただけで、2年前の北朝鮮潜水艦侵入事件が思い出される。
 1996年9月に発生した江陵市沖の北朝鮮潜水艦侵入事件では、ゲリラが上陸、韓国軍との激しい銃撃戦を展開した。同乗していた工作員と乗務員ら26人のうち、自決と交戦で24人が死亡、1人が拘束、1人が逃亡。韓国側も15人の死者を出し、南北関係が一気に悪化した出来事として、今も記憶に生々しい。
 今回の事件も緊張を招くのではないかと危惧したものの、銃撃戦で人命が失われた前回の事件と違い、韓国内の世論も過激にならず、金大中政権の政経分離政策に基づいた関係改善の機運に水を差すまでには至らなかった。韓国国防省も北朝鮮を痛烈に批判せず、休戦協定違反と述べるに止まったことにも、韓国側の冷静で穏便な対応が窺われる。同時に、北朝鮮も韓国財界の重鎮、現代グループ鄭周永名誉会長が牛500頭を支援、金剛山観光開発に乗り出すなど、民間レベルの支援の増加に期待していた矢先だけに、穏便に幕引きを図りたいという意向から、緊張を避けようという動きが見られる。韓国のメディアも冷静な対応ぶりで自制した姿勢を続けている。
 前回の潜水艦侵入事件では銃撃戦もあって、戦争の脅威を煽り立てる狙いがあったと思われるが、今回は故意、過失は判然としないまでも、戦争を仕掛けるといった大それたものではなかったと思う。むしろ、食糧危機に悩む北朝鮮が国内の体制を引き締めるために、緊張を煽り立てようとした狙いが見え隠れする。体制維持のため、国民の目を外に向けさせて、内なる憂いから目を遠ざけるという手段の一つであろう。

偏差値教育よりも怖い洗脳教育
 今回の潜水艇漂着事件では、第1発見者の韓国漁船長が、潜水艇の甲板で掛かった漁網を外そうとしている3、4人の人間を目撃しているが、韓国海軍が現場に急行した時には姿は見えなかったという。内部に隠れているのか、曳航途中自沈を図り沈没した今となっては引き上げて調べて見るまでは知る由もないが、恐らくかつての潜水艦侵入事件のように乗組員は射殺、工作員は自決をしてしまっているのではなかろうか。そう考えると、洗脳教育の怖さを改めて感じてしまう。
 かつて日本も、太平洋戦争においては、自らを犠牲にして国に殉ずるということが美化され、硫黄島玉砕、神風特攻隊などの苦い教訓とだぶらせて、潜水艇の集団自決を見る人は私だけではないだろう。金王朝独裁体制がもたらす悲劇を垣間見たようで、何とも後味の悪い思いである。
 3年前に北朝鮮を訪れた時のことが私の脳裏に鮮やかに蘇ってくる。私の目に異様に映ったのが、子供達の登下校時の光景である。金正日書記を称える歌を歌いながら、隊列を組んで行進していく子供達。授業では1日1時間金日成、正日父子の革命業績を学ぶと聞かされ、教育の怖さを痛感した。さらに、奇異な感じを受けた人民学校児童の行動は登下校時だけでなく、遊園地でも同様であったことを思い出す。子供達は隊列を組んで歌を歌い、一斉に一つ一つの乗物に移っていくのである。整然と順番通りに乗り、一斉に次の乗物に隊列を組んで移るという、あまりにも日本の遊園地と違う光景に、薄ら寒さを感じたものだ。その際の子供達の笑顔は一様に堅く、遊んでいるというより、遊んでいるのを見せるために遊ばされているというような表現がぴったりだったことが今も脳裏に焼き付いている。同時に、子供らしさの少ないその表情が、オウム真理教信者の顔を連想させることに気付き、不気味さを禁じ得なかったことも忘れられない。
 北朝鮮も、オウム真理教も、外部からの情報を遮断して、自らの教義のみを教え込む点では恐ろしく似ている。まさに、洗脳のなせる業である。こうした教育を子供の時から強いられ続けた将兵が敵につかまる前に集団自殺するのは至極当然なことと言えよう。とにかく、洗脳教育とは恐ろしいものであり、そうした教育を施している国に対して、常識や法律を唱えたところで、聞く耳は持つまい。そう考えれば、平和ボケの我々日本人が考えている平和は砂上の楼閣に等しい。
 こうしたことは北朝鮮の不気味な国家体制だけに限ったことではない。

恐怖の均衡、核ドミノ
 先日、中国に対抗しているインドが核実験を行った。世界の轟々たる非難をものともせずにだ。それに即座に対抗して、今度は中国の援助で核開発を進めてきた隣国のパキスタンがイスラム圏初の核実験を強行して、核の脅威には核の意志を示した。今や宗教、民族、国境の地域紛争ですら、核戦争の恐怖を味あわされる思いである。民族、国境、イデオロギー、そして宗教から生まれる軋轢や争いの怖さをもっと日本人は直視すべきではなかろうか。今、この時にも、戦争勃発の恐怖におののく国が世界に数多くあることを認識すべきである。
 かつて、ヒットラーが核開発を行っているとの情報でアメリカは恐怖に駆り立てられ、莫大な資金と人材を投入して核開発に成功した。核兵器を手にしたアメリカは、既に始まっていた東西冷戦にソ連への見せしめのため、敗戦寸前の日本へ原爆投下を行った。ところが、核の独占体制は、核を使用可能な兵器とし、使用への誘惑に駆られることへの恐れがアメリカの核開発科学者をしてソ連に核開発情報を流させた。そして、ソ連も核を手にしたことにより、恐怖の均衡が成り立ち、その後の朝鮮戦争でアメリカは核の使用を控えることとなった。中ソ対立が中国に核開発を決意させ、中印紛争がインドの核開発となる。前回のカシミールの領有をめぐる印パ戦争で敗北したパキスタンが、臥薪嘗胆ひそかに開発していた核爆弾を、先日のインドの核実験に対抗して即座に爆発させた。
 北朝鮮の核開発をやめさせるため、アメリカが原爆製造に向かない黒鉛減速原子炉から軽水炉発電所への転換や重油の供与など莫大な援助をしてまで阻止しようとしている究極の狙いは、北朝鮮が核開発をすればこれに怯えて日本が平和憲法や非核3原則をかなぐり捨てて核を開発するのではないかとの懸念を拭いきれないことにあるのではないかと思う。 我々は、核保有国に核の廃絶の訴えを行い、一刻も早く核ドミノに歯止めをかけるべく、NPT体制の抜本的見直しに向けてイニシアチブをとるべきである。そうしなければ、恐怖の均衡がいずれ破れる時がくるであろう。

備えあれば憂いなし
 しかし、今の日本は相も変わらず憲法9条を堅持し、平和を唱えていれば、平和を維持できると信じている。信じる者は救われるという言葉もあるが、このようなことをいつまでも信じていられる日本ほど幸せな国はないのではないかと思う。
 しかし、このような平和ボケに甘んじていると、その反作用として一旦日本に戦争の恐怖が迫った時、マスコミ世論ですぐに一色になる国民性ゆえ、今度はいっぺんに核武装軍事大国へと進むことになる。そのような道に進まないためにも、今のうちにもっと世界の現実に目を向け、世界は平和を得るためにいかに犠牲を払い、いかに備えをしているか、安全を手に入れることに人がいかに努力してきたかを皆が知るべきだ。 そして、平和にはコストがかかることを知り、核拡散の時代に対応する核弾頭を無効にするための独自の戦域ミサイル防衛計画に着手するべきである。今の平和を次の世代に残していけるよう、正しい教育制度のもと、何が善で何が悪か正邪真贋を議論を通じて一人ひとりがつかめる社会を作り、歴史観と世界観を養い、自らの安全は自ら守るとの力の論理に立脚した強い意志と能力を持つとともに、核の廃絶に努力をしていかなければいけない。
 冷戦終結後の世界情勢の中で、いつまでも日本に漁夫の利をアメリカは許さない。
 アメリカは自らの国益に添って日本の再軍備・核武装化を防ぐために、日本の守護者として核の傘の貸与を申し出ているわけだが、そもそも核の傘などは無いことを今や日本人は知るべき時にきたと思う。
 イデオロギーでの対決の20世紀が終わり、21世紀には米中対決、西欧キリスト教文明対非西欧儒教・イスラム教文明との対決の時代となるであろう。一日も早く、そのような世界情勢に即応した国家体制の確立を図らないと、21世紀の初頭において日本は大変厳しい時を迎えることとなる。