日興証券に不正な利益供与を要求し、株取引を通じて約2900万円相当の利益を受けたとして、国会に逮捕許諾請求されていた新井将敬代議士が、宿泊していたホテルの一室で首吊り自殺を図り、死亡した。
新井代議士は不正な利益供与を求めたことはないと主張していたものの、その日、衆議院本会議で正式に逮捕許諾請求が議決され、東京地検特捜部が証券取締法違反容疑で逮捕しようとしている矢先の出来事であった。この結果、東京地検は東京地裁に求めていた逮捕状請求を取り下げ、金融・大蔵汚職疑惑政界ルートは新井代議士の自殺という極めて異例の形で終結することとなった。 振り返れば、昨年3月に総会屋への利益供与事件で野村証券本社が捜査を受け、続いて5月に第一勧業銀行、9月には大和證券と日興証券にも捜査の手が入り、そして、11月に山一証券が倒産したことはいまだ記憶に生々しく、今回の新井氏の自殺は、その延長線上にある。 これまで政界においては、政治銘柄という言葉もあるように、政治家の多くが株を通じて証券市場から利益を得てきたことは周知の事実であり、大蔵省関係政治家や大物政治家で株で儲けて罪悪感を持った者などはいないのではなかろうか。だから、新井氏もまた、株で利益を得ることに罪の意識など全くなかったに違いない。 新井氏といえば、浮動票に頼らざるを得ない選挙区のせいもあってマスコミ受けのパフォーマンスも多く、金丸信元自民党副総裁が東京佐川急便から5億円の違法献金を受けたことに対し離党を勧めたり、竹下元首相と右翼皇民党との関係が発覚した際にも、竹下氏に自民党離党を促したことも世間の話題をさらった。当時、新井代議士は「今の政治家でやましいことをしていないと神様の前で誓える議員は一人もいない。金丸氏の問題も自分自身の問題と受け止めている」と述べるなど、金権政治批判の騎士とも言える硬骨漢であった。 ここにきて、大蔵省関係者が銀行・証券会社のいわゆるMOF担から毎晩目に余る接待を受けての癒着が発覚、逮捕されて世間を騒がしているが、もちろん、大蔵省に限らず建設省や農水省、その他官庁に市町村や公団など、およそ公共と名の付くものは、全てにおいての物品の購入や工事の発注などの談合容認で大きな利権を有してきた。この政・官・業の癒着のトライアングルの構造こそ日本的慣行とも言え、この談合体質を下地に戦後長年に亘って政・官・業の癒着で利益に預かれるそれぞれが甘い汁を吸ってきたことは誰もが知る所である。 それが、東西冷戦が終結した世紀末の今、規制と許認可による官僚指導の護送船団方式や談合体質が問われ始め、グローバル・スタンダードのもと本当の資本主義経済社会に収斂されていく中で、最高潮にも達した国民の政・官・業の“なれ合い癒着体質”に対する怒りを鎮めるためにも、なんとしてもここで人身御供が必要になってきたのである。 その生け贄が、まさか接待供与で逮捕されるとは思ってもいなかった大蔵省キャリアOBの日本道路公団理事であり、大蔵省ノンキャリアの金融検査官2名であり、はたまた株式の利益供与で逮捕されるとは思ってもいなかった今回の大蔵官僚出身の新井代議士であったと言ってよい。大蔵省キャリアOB・ノンキャリア・政界転出組と、まさにバランスを考えた逮捕であるが、これにキャリア現職が加われば、スケープゴートのバランスの完成といった所であったろうが、キャリア現職に及ぶ前にこの事件は起こった。 生け贄の本命とされた観の強い新井氏にすれば、なぜ自分だけが株の利益供与で糾弾されなければならないのか、これは出自への差別ではなかろうかとの強い憤りと無念の気持ちを抱いたであろうことは理解できる。しかし、株の一任取引を開始しますということは利益を出してあげますというのと同義語であって、一日のうちに何度も売り買いをして利益を捻出していたことから、これは自己売買ではないと考えるのは当然であり、またその都度、手数料を払って証券会社を儲けさせていたのも事実である。 利益を強要したことは一度もないとの新井氏の主張を鵜呑みにするとしても、「借名口座を開設し、一任取引で利益の付け替えを図ったこと」は利益の供与を受けたことであり、釈明の余地はない。これが、まさに新井氏の首を絞めることになった。彼自身、自らのロジックの不備に気付かず、気付いた時はその穴に落ち込んで身動きがとれなくなってしまった、というのが正直な所ではなかろうか。 新井氏の自殺の報に触れて、まず思ったことは、今までの彼の政治スタンスや生きざまからすれば、死を選ばざるを得なかったということである。彼の政治家としてのこれまでの言動を見ると、団塊の世代の大競争時代を生き抜いていくために徐々に他との連帯感が稀薄になり、他人に頼ることをよしとせず、独りで頑張ろうとつっぱってカッコよく生きてきた。その信念が今回の生け贄ともいえる糾弾でぼろぼろに傷つけられた。そして、彼の男の美学の行き着く所が自殺であったと言える。 彼が自殺を遂げた部屋に日本刀(脇差し)があったという。コンプレックスを克服した人は強いというが、それはまさに、虚弱体質として育ちながら強い男に憧れ、ボディビルに剣道と自らを鍛え、武士道を彷彿させるように割腹自殺を図った三島由紀夫氏にあやかったのではなかろうか。おそらく、死に際して彼の脳裏を横切ったものは、刀を残すことで死に方にも美学を究めたいとの思いがあったろうが、結局首吊り自殺しか果たせなかった結果が哀れでもある。 さりとて、首吊りという結果に終わったものの、その脇差しこそが、在日朝鮮人の二世でありながらも、「日本人以上に日本人として生き、そして死にたかった彼の心情」を鮮やかに物語っていると言えよう。 このように考えれば、自殺は発作的なもの、あるいは男の美学を貫いたもののように見えるが、私としては、持論ともいえる「自殺は病気」を覆すことにはならない。「生きざま」とは「死にざま」であると、つっぱって生きてきた弱さが、いずれ人は死ぬという思いが頭の中で肥大し、そして一瞬の危難に絶え切れずに死を選んだ。これはまさに、典型的な自殺症候群の一つと言える。 とにかく、今回の新井氏の自殺は絶好機の生け贄であった。国民の怒りを鎮めるに、これほど時宜を得た生け贄はなかなか探し出せるものではない。これによって、一気に公的資金による優先株や劣後債の購入が大手銀行に導入されることになろう。しかし、公的資金は大手優良に限定されることなく日本の金融機関すべてに一定割合で配分されてこそ、効果があると私は考える。 現在の貸渋り不況はまさに政策不況であり、これを脱するには、資産デフレをストップさせ、国民の資産価値を高める政策が必要である。今はもはやバブル高騰期の諸悪をあげつらう時期ではなく、バブルの崩壊デフレ不況から一日も早く脱する政策を論じる時期である。マスコミもいつまでも自虐的に貴重な国民の資産を減らして喜ぶ的外れのバブル再燃に対する恐れを警告する一部評論家のバカげた論評を発表する報道スタンスを変える時期に来ていると言える。 早急に政策を改め、株と土地の価格を高めるために、大幅所得減税と不動産に関する政策減税と規制緩和を実行すべきである。株と土地の価格を上げて銀行の貸渋りに歯止めをかけなければならない。国民は不況を嘆きながらも、一般のサラリーマンなどは貸渋りに無頓着である。しかし、この先、この貸渋りが続けば、その影響は国民一人ひとりの生活に大きくのし掛かってくることになる。企業が設備投資に資金を借りられず設備を延期すれば、その工事に関わる業者に仕事が回らず、それが不況を生み、いずれその社員の給与にも響いてくることは自明の理なのだから。 最後に、今回の新井氏の自殺で株は怖いもの、政治家は株に手を出してはいけないと資本主義市場経済社会にあるまじき論調がはびこり、また株価が下落することを懸念するとともに、最も迷惑を被ったのは宿泊先のホテルではないかと思う。今後、披露宴や結婚式の予約は当分の間ないだろうし、自殺した階や部屋への宿泊を願う人は皆無に近いだろう。稼働率の大幅減退で落ち込む売上を誰が保証してくれるのかと思うと、ホテルこそ、気の毒というほか慰めようがない。マスコミもせめてホテル名を秘すぐらいの配慮が必要ではなかろうか。 |
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