藤 誠志エッセイ
煽られ創られる世論


 あれから何週間も経っているのに、今以て新聞や週刊誌、テレビには、ダイアナ元皇太子妃(以下敬称略)の事故死に対する特集記事が頻繁に組まれている。「パパラッチに殺された」「酔っ払い運転の犠牲者」と騒がれているが、私には、”事故”の原因、責任はパパラッチや酔っ払い運転にあるとしても、”事故死”の原因は他にあると思えてならない。
 私は、これまで世界50カ国以上を旅し、パリへは毎年訪れ、事故現場であるセーヌ川沿いの高速道路は何度も走ったことがある。あの地点は、下り坂のトンネルでカーブを切る所に橋桁があるという危険箇所である。もし、あの危険なカーブの脇が橋桁の中央分離帯ではなく、コンクリートの側壁であったなら、死ぬことはなかったのではと、悼まずにはいられない。
下り坂ではアクセルを踏み込まずともスピードは増す。思っていた以上のスピードでカーブに出会えば、遠心力の関係で自然に外側にふくらんで、側壁に衝突する可能性は高くなるものだ。カーブでは減速しながらインコースから入り、カーブに入ってからは、加速しながらアウトコースに抜けるのが高速走行のテクニックである。それが日頃から速く走るのに慣れていない臨時の運転手が、パパラッチに追われていたことと酒酔いのせいもあって高速でカーブに突っ込んでしまい、曲がりきれずに側壁にぶつかったのではないかと思われる。ぶつかったところが運悪くコンクリート壁の中央分離帯ではなくて橋桁だっただけに、さしものベンツ600もまともに橋桁にぶつかってしまっては、その衝撃の大きさを吸収できなかったと言えよう。コンクリートの側壁であれば45度以下の角度で衝突しても、車は傷ついても、人間を死に至らしめることはなかったに違いない。
 つまり、パパラッチ、酔っ払い運転、スピードの出し過ぎは事故の原因だとしても、事故死の主たる原因ではない。第一の原因は道路の構造にあったと私は思うのである。それと、もう一つの事故死の原因に上げられることは、シートベルトをしていなかったことだ。事故の場合に死亡率が高いといわれる助手席にいたボディガードがシートベルトをしていたために助かったことを見ても、少なくとも後部座席のダイアナとドディ氏は助かっていたはずだ。死亡した3人には申し訳ないが、自らの怠慢が事故死の一因になったことは否めない。
 こうしてダイアナの事故死を検証すれば、フランスでさえ高速道路には危険箇所がかなりあるということになる。ましてや日本は 何をか言わんや である。そこら中、危険箇所のオンパレードといっても言い過ぎではない。チャイルドシートも付けずに助手席の子供をあやしながらシートベルトもしない母親の運転も問題だが、日本では交通事故が生じると責任の全てを運転手のせいにする。しかし事故の責任はともかく、運転者とその同乗者の事故死の原因の多くは、道路の構造と車そのものにあると言えよう。なぜなら、あれほど事故が多発するサーキットで、大破炎上した車の中からレーサーが無事生還してくる姿を見るにつけ、道路と車の安全対策にもっと力を入れるべきだと思う。今こそダイアナの事故死をきっかけに、日本の道路構造の不備を真剣に考える機運が熟することを期待したい。いたずらにカーブの多い高速道路の鉄製の脆弱なガードレールと毎年出来る舗装路面の轍、特に少しくぼめて造られた中央部の鉄柱とワイヤーの中央分離帯は、衝突直前に右前輪がくぼみに入り、衝突角度を高めてから鉄柱にぶつかり、本当に危ない。
 それにしても、連日のダイアナ騒ぎには閉口する。そして、美しいプリンセスだったからといって、死ぬ前と死んだ後でこれほど評価が変わるのもマスコミの節操を疑う。生前はその言動、行動において眉をひそめる人が多くいたにも拘らず、ダイアナとドディ氏の死がどんどん美化されて今にも結婚目前だったように報じられているが、人種の違いと宗教の違い、武器商人の息子であるドディ氏とは本当に結婚できたのであろうか?ドディ氏の父親アルファイド氏がせっせと売りさばいて儲けた地雷をダイアナが回収に走り回るというのも面白いが、パパラッチを非難し延々と続く記帳を待つ人々の一方の手に大衆紙を持っているのもまた面白い。死亡した途端に、聖女の如くに持て囃され、本当に聖女として歴史に残る可能性すらあるほどの騒ぎようである。この聖女生誕のシナリオを見るにつけ、マスコミが創り上げるイメージとは何とも空恐ろしい。世論を操作する意味では、まさにマスコミの面目躍如といったところだろうが、一つのことを繰り返し報道し続けることで、実際とはかけ離れたイメージを定着させる魔力には、薄ら寒さを覚えるのは私だけではなかろう。

 最近では、21年前に暴露されたロッキード疑獄事件で収賄罪に問われ、有罪判決を受けた佐藤孝行氏が総務庁長官として入閣した大騒ぎも、またしかりである。
 26年も前の200万円の献金を問題とするなら、今の政治家のうち何人が彼を責められるというのかと、私は問いたい。彼がかつて有罪判決を受けた人だとしても、いつまでも”濡れた犬は叩け”とばかりの報道はいただけない。
 テレビなど、事件当時はまだ子供であった若い人にインタビューし、その質問も「有罪判決を受けた人が内閣の一員になるのはおかしくありませんか」という誘導尋問的なものには呆れてしまう。これでは、よくわからない人も含めて”皆がけしからんと叫んでいる”という世論を創り上げてしまうことになる。
 確かに、佐藤氏の判決に対する言動は褒められるものではなかったが、自分だけがいつまでも糾弾されるのかとの憤慨は理解できるし、その後、幾度かの選挙で洗礼も受け、有罪も確定して刑に服したのであるから、生涯その負い目をいたぶるのは甚だ理不尽と言わざるを得まい。このような魔女狩り的報道に便乗して辞任に追い込み、行革つぶしをねらう「ダメなものはダメ」の社民党と、そんな主義主張の違う政党との、節操のない尻尾が胴体を振り回すような連立を続ける自民党の神経も疑う。
 しかしもともと今回の騒動は、日本人の最も嫌う「反省が足らない」「態度がでかい」など気配りの不足から発生した騒ぎである。長官就任記者会見で謙虚に過去の有罪判決を謝罪すべきを、過去のことは忘れてとペルーでの青木大使の「タバコを燻らし」記者会見での失敗の二の舞いを演じてしまったことである。本来そんなことはその職の業務執行能力とは関係ないわけで、むしろこの際しっかりと行革をやることで認めてやるべきだけれども、マスコミはなかなか追及の手をゆるめない。
 こうして執拗にマスコミが個人を追い詰めていく姿勢と、ダイアナをかつては追い詰め事故後は聖女に仕立てていく姿勢とは、相通じるところがあるのであるまいか。マスコミが大騒ぎした過去の報道を今、冷静な目で振り返り、歴史観と世界観をもって検証し、糾弾すべきは糾弾し、正すところは正して、マスコミが創り出した虚像を払拭すべき時期に来ているのではなかろうか。
 今のマスコミは、商業主義に走り過ぎている。「視聴率第一・購読者数第一」たるがために、最も安易な方法、すなわち『一斉に繰り返して同じ事件を興味本位に伝え続ける』という呪縛に憑かれているといってもよい。過熱報道、過度に発達し過ぎたマスメディアの姿勢が、多くの前途ある人をおとしめ、また多くの虚像を創り上げて世を惑わしていると、言いたい。
 マスコミが偽善とエセ平和主義を押しつけるとともに、世俗的な興味と覗き見趣味を満足させるスキャンダラスで話題性のある事件ばかりを追い求める現在の姿は、”やっかみとひがみ”という低レベルの人間の欲求を満たしているに過ぎない。ダイアナの事故死騒動や佐藤孝行氏入閣への糾弾などは、まさにマスコミの恥部と暗部を炙り出した証しのように私には思える。
れわれはマスコミの報道に踊らされることなく、冷静な視点で事態を俯瞰し、自らの価値観・世界観を養い、物事の正邪・真贋の判断を下したいもの