藤 誠志エッセイ
社会正義とマスコミ


 日本広告業協会がようやく、「テレビ局がきちんとCMを放送しているかどうかを確認する合同調査を実施することを決めた」という記事が、新聞紙上の片隅に載っていた。これも、福岡放(FBS)、北陸放送(MRO)で発覚したCM未放送問題に対応しての処置だと思われるが、その中の「CM間引きの多い放送局については社名を公表する可能性もある」というコメントを見て、私は唖然とした。
 間引きというから、耳障りはいいものの、はっきり言って詐欺、泥棒と変わりないのである。通信販売でいえば、お金を振り込んでも商品が届かないのと同じことで、これが一般的な売買行為ならば、立派な犯罪。刑事事件である。当然、一件でも立証されれば犯罪になるのだから、摘発されるのは当たり前なのに、 間引きの多い悪質なケースであれば、社名を公表する可能性もある とは、どういう感覚の持ち主なのだろうか。
 本来、こういう不祥事はあってはならない事である。詐欺、泥棒まがいの悪事を、長年組織的・継続的に全国の民放局がやっていたとなれば、大変な問題となるはずである。しかし、マスコミは社会の構造不正の追及はもちろん、身内の犯罪には甘い。他の事件なら大々的に報道され、 濡れた犬は叩け とばかりにワイドショーの番組の如く、一斉に矛先を向けて袋叩きにして視聴率を稼ぐところだろうが、今度の事件にはどうも反応が鈍いように思えてならない。
 通常なら、会社が詐欺行為を働けば刑事事件として起訴され、免許を受けていれば停止され、社会的制裁を受けることになろう。しかし、放送局の不祥事は事情が異なるようだ。監督官庁である電気通信監理局長の弱腰な発言を聞いていると、そう邪推したくもなる。「独自の調査は行わない。会社の自主的な調査結果を見て、疑義があれば、話を聞くことになる」との見解を発表したものの、未だ被害者の公表もなく、それ以後、処分を下したとも聞いていないし、刑事処分を科されたとも聞いていない。全く以て 釈然としない のひと言である。
 日本広告業協会は、広告主の立場に立って、厳正にCMが放送されていたか、不正は行われていないかを調べ、不正がある場合は告発するぐらいの態度を示すべきである。それが「悪質のケースであれば…」などとは、なれ合いと言われても仕方あるまい。そう、このなれ合いこそが、日本社会の不正を長年に亘って生きながらえさせてきた元凶なのである。
 公共事業の談合問題しかり。天下りの特殊法人の野放ししかり。官庁の空出張騒動もしかり。すべてが政・官・業の癒着、なれ合いに端を発し、それを見過ごしてきたマスコミの責任は極めて大きい。今回の民放局の間引き事件に対しての扱いを見れば、マスコミは何十年にも亘り、健全な監視機関としての義務を怠り、なれ合ってきたと言っても差し支えない。今は2局のみが騒がれているが、探せば、埃の出るものが続々と出る恐れすらある。対岸の火災でないだけに、仲間は叩けないというのが本音であろう。
 
国際情勢が大きく変化し、国際化の波が押し寄せる現在。日本は精神的な鎖国状況を打破して、いろいろな分野で、国際的な基準と判断のもと、改革を施さねばならない時期にきている。税制も、法律も、習慣も、すべてが待ったなしの岐路に立たされている。日本だけが特殊な国、なれ合いと不正がはびこり、高物価と高税率の国であってはならない。
 そのためには、今こそマスコミは社会の監視機関としての役目をしっかり果たし、大局的見地から長年に亘って報じなかった不正や悪習に対して敢然と立ち向かっていく絶好のチャンスである。自らが襟を正し、第4の権力という自覚を胸に、数十年に亘ってはびこってきた構造不正を厳しく監視するためにも、今回のCMの間引き問題にはきっちりとケリを付けなければいけない。
 野村・山一・大和証券などの総会屋への利益供与は氷山の一角であり、公共工事の談合、公団・特殊法人、医療法人などの不正などは徹底して報ずるべきだ。確かに、こうした不正は国民皆が知っている。しかし、長年見て見ぬふりをしたままで、マスコミもこれを報じない。このように構造不正や腐敗を見過ごして、今日まで助長させてきたマスコミの責任は重い。私には、今のテレビは安直なワイドショー番組で一斉に同一事件を繰り返し報道するとともに、深夜にあっては低俗な番組の垂れ流しに終始し、社会の不正を正し社会正義を実現することよりも、視聴率稼ぎに走り回っているように思えてならない。

 そもそも情報とは極めて貴重なものである。かつてはマラトンでの勝利を走って知らせたり、その他伝書鳩や狼煙のリレーなどで多大な費用と努力で一部の人が素早く情報を入手し、大もうけをしたり、戦いの勝機をつかんだりしたものである。それが今日では、瞬時に世界を駆け回りスイッチ一つで出てくる情報や一部百数十円程度で宅配される新聞で、高学歴者も多額納税者も権力者も有名人も、親がかりの学生も、誰でもが等しく情報を得ることが出来ることとなった。情報が大衆のものとなった今、マスコミの持つ影響力は非常に大きい。それゆえに責任もまた大きいと言わざるを得ない。
 現代社会は、国家百年の計よりも、政策や理念も持たずに時流に乗り大衆受けする数合わせにいそしむ世論調査政治家と、低レベルの情報をまき散らすマスコミ世論に振り回され、自らの考えすら持たない大衆を生み出してしまった。その結果、悪平等社会がはびこり、機会の平等と結果の平等とをはきちがえて「やっかみとひがみ」の悪平等社会を創ってしまった。
 21世紀に向かってわれわれは、地球環境に思いを致し、人類と国家の未来に責任の持てる政策を実行する政府を創りだすためにも、健全なマスコミを育て、社会の不正に対する監視機能を発揮させて、歪な日本を未来に期待の持てる国に改革していかなければならない。