藤 誠志エッセイ
悪平等社会の弊害


 先日、テレビで、新進党の小沢党首が、「野村証券・第一勧業銀行にみられる総会屋への利益供与等の事件は、現在の日本の高累進課税制度に因がある」と話していた。彼の論じるところによれば、欧米の法人経営者が数億円にのぼる年収を得るのに比べ、日本のサラリーマン経営者は総じて三千万円前後の年間所得しかなく、なおかつ、日本の最高税率が65%だから、手取り額の年収は新入社員の5、6倍程度でしかないというのである。
 米国においては、最高所得税率は35%程度であり、手取り額の差は欧米の経営者と日本の経営者の間ではまますます開くわけで、その結果、日本の法人経営者は、会社所有の社宅から会社の車で会社が雇う運転手の運転により通勤し、会社の交際費で飲食し、会社のゴルフ会員権を使ってゴルフ場に駆け付けることになる。つまり、所得そのものが決して高額でないがために、公私ひっくるめて、すべて会社の経費で賄わないと上場企業の社長としての体面が保てないというのが、実情なのである。
 三千万円そこそこの年収で上場企業の体面を維持するには、どうしても会社の経費を個人の交際費として使わざるを得ないのは致し方ないとしても、それを総会屋に付け込まれ、さらに隠蔽しようとしての利益供与が総会屋を跋扈させ、更に深い深みへとはまっていくわけである。本来、資本主義では株式会社は株主のものであり、サラリーマン経営者のものではないにも拘らず、今年も一斉に6月27日に株主総会が開かれ、多くの株主や総会屋を締め出し、わずか30分や一時間で株主に1年間の企業の活動概要を報告し、承認を求めるのが、そもそもおかしな話である。もっと時間を費やして堂々と報告し、承認を求めるべきである。
 日本には、価値の高い個人円と、価値の低い法人円があるという。そして、貴重な個人円よりも、社長の間はふんだんに使える法人円を使って、個人的な生活をエンジョイしようとするけれども、本来なら、公私を峻別し報酬を増やし、もっと累進税率を緩和し、社長を一定期間務め上げればハッピーリタイアメントをして、趣味とボランティアなどに生きがいを見いだすべきである。しかし日本の経営者の場合は、趣味も乏しく、清廉潔白と言われた人ほど所得の蓄積はなく、退職金を合わせてもなかなか老後の不安が拭いきれない。特にゴルフしか趣味もなく、車の運転もしたことのない会社一筋人間は、長年通っていた会社に出社する場所のなくなることと、会社で受けていた特権が無くなることへの不安で、社長を退いても会長、名誉会長、相談役として延々と居座り、社宅や車、秘書、運転手を使い続けることとなり、これが一般的な社長退任後のパターンとなっているのである。
 官僚の天下りなどもその最たるもので、官僚の最大の仕事は先輩官僚の天下り先を作ることであり、その結果、外郭団体である財団・公団・特殊法人などを乱立させ、非効率の高コスト社会を作りだしたと言わざるを得ない。また、こうした理事長、理事、会長、名誉会長などが、権力の二重、三重構造を招くことになったのである。“年寄り元気で長老支配が続く”、まさにこうした老害が馴れ合いと癒着を招き、談合体質が日本社会を覆うこととなり、高島屋、味の素、全日空、野村証券、第一勧業銀行などもそれのほんの一例である。マスコミも、会社の体質や悪行を現象面だけで論ずることなく、もっと本質を捉え、もう少し突っ込んで解析すべきであって、表面上だけをなぞった非難、批判を繰り返して社長や首脳部を失脚させるだけでは、問題の解決とはならず、モグラ叩きでしかない。
 本来社長には社長に相応しい資質が必要であり、ナンバーツーにはナンバーツーの、単に年功を重ねればその地位に就けるのではなく、その地位に相応しい資質が求められるべきである。欧米では幹部を目指す者は初めから幹部候補生として遇し、その教育を与え、心構えを醸成させるが、日本では平社員もトップを目指す者も等しくあしらい、日が経ちミスを犯さず、運が良ければ、誰でもトップになれる、まさに調整型村社会の論理である。
 社長が能力で選抜されて社長になったのであれば、業績に応じて大きく稼ぎ蓄積し、意欲がなくなれば、自ら後進に道を譲り、ハッピーリタイアの道を選び老後をエンジョイする。サル山のボスザルは力が衰えた時は、若手の力あるサルにその地位を奪われるという。人間社会の権力の移行も、長老支配のないサル山の論理に従うのがよいのかもしれない。
 日本の社会は平等社会といわれるが、累進課税も結果の平等ばかりに重きをおいた税制であり、今回の不祥事の因を高累進課税にあり!と発言した小沢党首の考え方には同感できる。55年体制の崩壊の結果、議会も議論することが少なくなり、政党が政策で争わずに、員数合わせによる妥協の産物で政治を行っているように思えてならない。将来に負担を先送りする介護保険法案や、脳死を、移植を希望する人に限ってのみ人の死とする臓器移植法の成立など、あらゆる法律が、論戦もないままに無原則の妥協の結果、いつのまにか決まってしまうことに私は疑問と憤りをもつ者である。1日も早く議会を言論の府として規制緩和と行政改革を断行し、癒着と馴れ合いの談合社会を、市場原理に基づき、機会の平等を保証する社会にして欲しいと願わずにおられない。