藤 誠志エッセイ
偏差値教育とTV報道


 先日、NHKの番組で、「聴診器を使えない偏差値世代の医学生」というタイトルのもと、現代医学生の実情を興味深く論じていた。内容は、聴診器が使えないというよりも、医者になっても患者の目を見て話をしたり、コミュニケーションが上手く図れない医学生が増えていることを報じるものだった。医師国家試験に通るためだけの勉強に終始し、試験に対する傾向と対策を十分に練った者のみがパスする構図は、テクニックと記憶力重視の教育制度が生み出した象徴と言えるのではなかろうか。
 そもそも幼稚園の受験に始まって、高校受験や大学受験、さらに国家試験までも、傾向と対策に基づくテクニックを磨くことのみに若者を没頭させ、その結果医師が医療業務に携わることに必須とも言うべき社会的モラルはもとより、基本的な問診やコミュニケーションなど最も大切な事柄を抜きに医師の卵を粗製濫造する現在のシステムは如何なものであろうか。各県一医大の方針のもと、全国に医科大学が続々と生まれた結果、聴診器さえも使えない偏差値世代の医学生が、これからの日本の医療を支えていくのかと思うと、薄ら寒さを覚える。
 最近、巷を騒がせた薬害エイズ問題、さらに吸入式喘息薬による副作用問題など、医療行政に携わる者と医療現場を預かる者、そして製薬・医療業界とのトライアングルとも言うべき3者の癒着が生み出した副作用と言えるだけに、“怖い時代に入ったな”というのが私の実感である。
 最近は世の中を傾向と対策に基づくテクニックに依存して上手く渡っていこうという風習が様々なところに現れてきている。企業が偏差値の高い学校へ求人を殺到させるせいもあるが、就職試験の面接においては、私の経験からもいわゆる偏差値がそう高くない学校の者が想定される質問に対してはハキハキと答え、主張もしっかり論じ得るのに対し、高レベルの学校の学生は面接では優れないことが多い。
 なぜかというと、就職戦線で苦労を強いられる学生は、学校で面接の練習をみっちり積んでやってくるのに、一方、有名校出身者は危機感があまりないので、用意周到とはいかず、面接の練習もせずただ漠然と学歴だけを頼りに、試験を受けることによるものである。
 特に一、二浪した高偏差値学生は、大学受験時に全ての精力を使い切り、出し殻となって卒業しても、有名校ゆえに一流会社に入社できるからである。
 考えれば、大学受験や就職試験だけでなく、医師試験、司法試験などの国家試験においても、どういう問題が出そうかという傾向と対策が最も大事な勉強になっている。試験のほとんどがマークシート、○×式という記憶力重視の形式であることも、テクニックを磨く点にのみ専念させる偏差値教育に拍車をかけていることは言うまでもない。

 大企業においてもまた然りである。偏差値の高い大学を出た若者を優先的に採用し、こうした一流大学出身ですんなり一流企業に入った者が、大きな冒険とか、リスクにトライすることなく、ただひたすらリスクを掻い潜り、失敗もなく時が経てば昇格して、役員や社長となっていく。危機回避というテクニックには長じているが、危機に直面すると途端にオロオロしてしまう人間が上層部に居座った結果、何が一番怖いかとなれば、それは株主総会ということになる。会社に対する悪い情報や経営に対する姿勢をつつかれると困る。だから、株主総会はできる限りシャンシャンと何事もなく終わらせたい。そうした愚考のもと、総会屋に金をばらまき、便宜を図った挙げ句の果てが、高島屋や味の素、さらに今回の野村証券や第一勧業銀行の不祥事なのである。
 私はこの一連の事件を眺めて、やはり「サラリーマン経営者」だから、引き起こした不祥事という感想を持たざるを得ない。経営責任というものを誰もとらない。偏差値教育で育った高学歴者がリスクを回避しながら上りつめた席が役員、社長であるがために、経営に責任を持たないサラリーマン社長が事なかれ主義に甘んじた報いと言えよう。
 リスクに立ち向かった経験も、また立ち向かう意志もないために、毅然とした態度をとれず、ただビクビクと保身だけを考えて総会を無事済ますことだけに躍起になる。その結果、総会屋に付け込まれ、反社会的勢力による様々な要求に安易に応えてしまう体質となったのである。
 こうした不祥事は、他の会社にも程度の差はあれ、あぶり出せば、いっぱい出てくるのだろうが、暴対法施行とか商法の改正とかで法律がいくら整ったところで、企業の上層部が毅然とした対応が出来なければ、法律など何の役にも立たないということを、肝に銘じるべきではあるまいか。
 毎度のごとく、政治家や企業の不祥事が後を絶たないが、それに対し国民が政治や企業に不信感を募らせ、怒りを感じなくなってしまうのが一番恐ろしい。
 一方、先日秋田県で土石流が発生したが、その際、知事がゴルフ場に行っていたと非難していたテレビ局があった。話題づくりには格好といえようが、こうした取り上げ方には、首を傾げざるを得ない。新聞、テレビに携わる人間は一流大学を卒業した人が多いのだろうが、全体を俯瞰して大局を把握、事の善悪を広い視点で判断する能力に欠けているのではないか。
 海岸に流出した重油が漂着した際に旅行に出掛けて不在だった市長を糾弾して辞職にまで追い込んだ実績(?)を盾に、二匹目のドジョウを狙ったのであろうが、災害時にゴルフ場に行っていたとか、マニキュアをした女子高生を叱って正座させ、頭を叩いたとかでいちいち全国報道で非難するようなことは、百害あって一利なしと思う。
 私が一番危惧しているのは、こうした重箱の隅をつつくような報道が続くと、熱血教師も政治に情熱を持つ者もいなくなり、志ある者がリーダーとならず、そつのない者のみが引き立つようになれば、日本の将来はますます暗いと言わざるを得ない。

 マスコミも視聴率のためとは言え、いい加減にやっかみとひがみ根性と覗き見的大衆受けの報道と決別し、歴史観と世界観をもって国家・国民の将来展望を見据えて報ずるべきで、フジモリ大統領の武力解決は平和的でないとか青木大使の記者会見の態度が傲慢だとか、人事権のない若狭氏の副社長指名には問題があるとかとの一方的非難はどうかと思う。
 日本のマスコミもメダカの群れのように、方向性が決まると(リーダーがいて決めるわけではないが)一斉に同じ方向に進む。全体と部分、過去と現在と未来とを考えずに魔女狩りのように、濡れた犬は叩けとばかりに次のターゲットが出てくるまで根掘り葉掘りほじくり、報道しまくる。
 ペルーにおけるフジモリ大統領登場以前の政治・経済・テロの被害はどうであったか。青木大使は日本での記者会見ではなく解放直後に現地で外国記者との会見であったことも考慮すべきだ。前社長普勝氏自身の社長就任も人事権のない若狭氏の指名で決まったものであり、これは社内人事の内紛で若狭氏の羽田ハブ空港化への働き掛けに快く思っていなかった運輸省の思惑もあるわけで、一方に与することなくいろんな観点から報道すべきではないか。
 日本のマスコミはワイドショーと称して一斉に全てのテレビで同時間に同一見解で報道し、国民をマインドコントロール下に置き、人民裁判のごとく大衆動員で善悪を押しつける。
 ロッキードの田中、リクルートの江副、佐川に金丸に中村喜四郎と叩き、三浦事件もトリカブトも矢ガモ報道も消費税も住専の6850億円も同列に論じ、バカ騒ぎし、まさに大宅壮一じゃないが一億総白痴化への道を進んでいるのではないかと心配だ。
 寓話にこんな話がある。「一匹の羊に率いられた百匹の狼」と「一匹の狼に率いられた百匹の羊」はどちらが強いかという話である。指導者が皆羊になっては、日本の21世紀が案じられる。
 学校教育は初めに答えありきではない。それは議論を通じて何が正しいかを見極めるとともに、世の中には一定のいじめも体罰もあって理不尽と不平等はつきものであることを理解させ、真理を探求し心身の鍛練を図り、時には感動し仲間と連帯感を共感する場とすることである。結果の平等と機会の平等を履き違えることなく、やる気のある意志の強固な人間が、失敗を恐れずどんどん思うところを実行していける社会を創っていかなければならない。皆が失敗を恐れ揚足を取られることを怖がっていては、何もしないことがベストということになってしまう。そんな無気力を善しとする社会にならないことを望んでやまない。