北朝鮮のファンジャンヨブ書記の亡命騒ぎが連日報道されたかと思ったら、今度は、中国の最高実力者であるトウショウヘイの死去を報ずるビック・ニュースが飛び込んできた。中国指導部は江沢民体制が確立した今、トウショウヘイの死による内外政策への影響はなく、政権は今後も揺らぐことはないと、その安定ぶりを誇示しているが、そうした言葉を鵜呑みにしてよいかとなれば甚だ疑わしい。 確かに、日本国内の識者の中にも、トウショウヘイは既に公職を離れて数年が経ち、江政権への権力の委譲も完了して、現体制はさらに確かなものになっていくという見解を示す者がいることは事実だ。北京の一般市民の反応も、「高齢で昔の人というイメージが強いため、特別な感情はない」「香港の正式返還を前に亡くなられたのは残念だが、私の生活には関係ない」など、冷静にトウショウヘイの死を悼む声が多い。 しかし、中国の内外を取り巻く状況、後継者の力量、軍部との関係などを考慮すると、江政権がこのまま改革・開放路線を継承、実行して行けるかどうか。等しく貧しい時ならともかく貧富の格差が急拡大している今日、12億人もの国民を一つの政権のもとに束ねて行くことは、甚だ難しいと言わざるを得ない。 そもそも、彼は上海市の一書記に過ぎなかったのが、89年6月に起こった天安門事件の混乱を乗り切るために、トウショウヘイの一言で当時のチョウシヨウ総書記を解任し、大抜擢で昇格した人物である。 その後、7年余りの間に自身の上海人脈をフルに活用して政権を補強、現在の地位を手にしたわけで、何の民主的手続きで選ばれたわけではなく、すべてトウショウヘイの後押しがあったればこそである。毛沢東後継指名のカコクホウの例や、隣国の北朝鮮が金日成亡き後、金正日への権力移行が安易に進まず、政権交代に伴う失脚や亡命者が相次ぐなどの混乱を招いている事例に鑑みても、そのバックボーンを失った今、本当に安定した政権維持が可能かとなれば実に心許無い限りである。 現在の中国を握っている真の力は軍部であり、軍を掌握した者が国を握るのである。一応現在、江沢民が軍事委首席として軍を握っていることとなっているが、その軍部も地方軍管区別に独自色を強め、かつての軍閥のように群雄割拠の体を成していることからみて、これを掌握しているとは言い難い。しかも、この軍管区ごとの軍が地方の産業と政治を牛耳っているのである。 そうなれば、毛沢東やトウショウヘイのような革命闘争の闘士でありカリスマ性のあるトップでない限り、軍部を完全に掌握しきれず、江沢民はカリスマ的な指導者でないだけに、大変難しい。 今後も中国の情勢に基本的に変化がなく改革・開放路線は堅持され、日中関係は良好のまま推移すると言っている日本の政治家や経済界は、トウショウヘイの死がいかにアジアの情勢に影響を及ぼす重大事であるかを認識しているとは思えない。朝鮮労働党の黄書記の北京での亡命騒ぎも、当初、北朝鮮は「拉致されたものであり、韓国への移送は断固阻止する」と強硬姿勢をとり、かつて韓国に亡命した金日成の前妻の甥、李韓永をソウル近郊の寄宿先で亡命者に対する見せしめの報復として銃撃するという事件を起こし、長期化が懸念された。しかし突如、「変節者はどこへでもいけ」という北朝鮮外務省スポークスマンの言明で、一気に解決の道が開けた。が、この裏には、日本では考えられない情報戦があったようだ。おそらく北朝鮮はトウショウヘイの危篤状態をいち早く察知し、死亡後の中国への警戒感から、亡命問題でこれ以上トラブルを起こすのは国策上好ましくないと判断したのだろう。そう考えなければ、北朝鮮の指導原理「主体(チュチェ)思想」の理論的支柱で、これまでの亡命者の中では最高位の重要人物の亡命をやすやすと見逃すはずがない。 こうした一連の事件を鎖のように考えると、いかに国際社会は一人の死によって変動していくかが知れるというものだ。その節目となるような大事件に対して、日本ももっと敏感に反応しなければならないのではなかろうか。 政治体制の変更がベルリンの壁を壊し、その後の東欧やソ連邦の解体と社会主義体制の崩壊へとつながったわけで、今回のトウショウヘイの死が、封建主義的に変質を遂げ君主独裁制で存続を図ろうとしている社会主義国、「トウショウヘイの中国」、「金正日の北朝鮮」、「カストロのキューバ」、「ド・ムオイのベトナム」などの残りの社会主義国の崩壊につながるように私には思えてならない。 沈没する泥舟から逃げ出すネズミのように、国家思想の理論家が亡命する事件、そして、政治は社会主義、経済は市場経済という独特の社会主義経済を掲げた大国の最高実力者の死は、チベット、台湾の独立、北朝鮮やキューバ、ベトナムの現行政治体制の崩壊を誘発する爆弾ともなる要因なだけに、ついに社会主義体制全体の終焉劇が始まったと思われないだろうか。 そういう意味では、表面的にはクリントンがゴルフに興じたりして平静さを装いながらも、裏では軍に警戒体制を強いたという米国と、「トウショウヘイは過去の人であり、中国の改革・開放政策に変化はないであろう」との日本の対応とは大違いだ。 どうも、日本人は記憶力のみを重視する偏差値教育にどっぷり浸かって大人になったためか、自らの世界観をもたないでマスコミ報道に一喜一憂する傾向が強い。 中国は、12億もの人間を一つの政府のもとに統治するという、人類史上例を見ない壮大な実験を行っているわけで、もし失敗して核を所有するこの大国で軍管区ごとの対立で内戦が勃発すれば、日本はとても無関係といかない。 トウショウヘイは最大のライバル毛沢東との文化大革命闘争を生き抜き、人生において三度失脚し三度甦ったと言われている。批判もあるが、彼の天安門事件の冷徹な処理と言い、本当は最も恨んでいい毛沢東に対する現実的評価と言い、彼はマルキストと言うよりも最大のプラグマチストであり、彼の信念と根性に基づく実績は20世紀最大級の人物と後世評価されるであろう。 日本人はとかく 現実よりも、より望むほうに期待する という気質がある。そして、期待はいつも裏切られるのである。なぜなら、望みを達成するには力が必要だということを理解していないからである。 その力とは、軍事的なものばかりでなく、先見力と深い洞察力を以て現実を直視する世界観と、備えあれば憂いなしの心構えである。 平和には二通りがある。「支配する平和」と「支配される平和」である。支配される平和も平和であるとの考え方では、もし中国や北朝鮮が分裂、崩壊などで危機感が現実化すると、今度は一転して再軍備・核武装化へと一気に世論が傾くことになるだけに心配だ。 戦後の日本の平和は東西冷戦の漁夫の利として与えられたものであるにも拘らず、一般国民はもとよりマスコミ、経済界、官僚、政治家までもが、自らの力で勝ち取ったように錯覚している。『与えられたものは、いずれ奪われる』と言われるように、日本にとって今の平和が勝ち取ったものでないだけに、どうしても平和ボケの発想に陥りやすい。 今後は主張すべきは主張して日・米・中の関係を対等にして「平等互恵」の発想でバランスのとれたものにして行かなければならない。いつまでも、米国に オンブにダッコ の与えられた平和では、いずれ奪われ、苦難に満ちたものになるであろう。 私は今までに世界50ヵ国余りを訪ね、北朝鮮にもソ連や東欧、中国やベトナム、キューバにも訪れる機会を得、世界の変革を肌で感じることができた。それだけに、今の政治家、官僚、マスコミはあまりにも世界のことが分かってないのではないかとひそかに危惧している。 とにかく、トウショウヘイの死で東アジアの情勢が大きな変化を余儀なくされそうな気配だけに、一日も早く自らの歴史観と世界観を持ち、現実を見極められる資質・国民性を養うとともに必要に応じたバランスのとれた軍事力を整備し、未来に展望が持てる国にして行かなければいけないと思う。 (敬称略) |
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