藤 誠志エッセイ
最大の福祉は大家族制度


 先日、交番が側にある交差点で信号待ちをしていたら、若いお母さんが自転車の前後に二人の幼児を乗せて、目の前を通り過ぎていった。近頃は自転車の3人乗りをあまり見掛けなくなったこともあり、ちょっと危ないなと思いながら微笑ましく感じたりもしていた。交番の警官もこれを知ってか知らずか見過ごしていた。
 しかし、米国でそんなことをしていたら、おそらく厳重な注意を受けたに違いない。米国においては、ちょっと買い物に出かけた際に、幼い子供を管理者のいない遊び場に放置して20〜30分経って戻ったら、そこに警察が待っていて、その母親が逮捕され即刻裁判に掛けられるのが普通である。幼児を一人にして外出したり、車に子供を残したままショッピングをしていたりして、「幼児虐待罪」で逮捕、罰金を課せられる件数が毎年数万件にも上るという。
 日本では、今や国民の大多数が免許を所持しているにも拘らず、交通事故を減少させるための安全施策に配慮するよりもむしろ交通違反を取り締まること自体に躍起となって、交通安全とは関係の薄い所で罰金予算達成のために、大多数の警察官を動員して毎年数百万人もの人々を検挙している。これでは免許産業と警察組織維持のために行っているのではないかと疑われても仕方がない。その結果、国民の大多数が犯罪者となり、昔のおまわりさんの親しみもなくなり、重大犯罪の検挙率も下がり、一人の犯罪者を逮捕したらとことん余罪を追求して自白させ検挙率の向上を図っている始末である。当然、検挙件数がカウントされない危ない母子の自転車の2人乗りなど取り締りの範疇に入っていない。今やバスでもワンマンカーで一人乗務なのに二人乗務のパトカーが(米国では通常パトロールには一人乗務が原則)数台がかりでノーヘルの原チャリ(原付バイク)を負いかけ回し、ネズミ取りと称して安全で真っ直ぐでスピードが出そうな所で隠れてスピード違反を取り締ったり、シートベルトの着用チェックをしている。こうした自分でリスクを分ってやっている違反を取り締るよりも、もっと危険を回避する能力のない幼児や弱者を保護することに力を注ぎ、交通警察官の削減を図るべきではなかろうか。

 残念ながら日本人の気質では、幼児、子供の放置が虐待であるとの認識が欠けていることは否めない。例えば、パチンコに熱中して炎天下に車内に子供を放置して帰っきたら子供が死んでいたということや、また、子供だけを家に残した外出中に、マッチ遊びをして火事を起こし焼死するという悲劇は毎年のように繰り返されている。こうした事件を見聞きした場合の日本人の受け止め方は、大方、「かわいそうな家族である」といった同情論で終わってしまうことが多い。
 日本においてはあまり話題になっていないが、米国では最近、急速に膨らむ車のエアバッグが子供を直撃して死亡させるということが大きな話題となっている。日本でも同様な事故が起きている可能性が高いにも拘らず、日本で問題とはされず、米国で話題となって初めて改善を意識するというのはなんとも情けないことだ。
 最近、父親が子供を殴り殺すという事件があった。甘やかして過保護に育てた結果、家庭内暴力に走った息子を、その暴力に堪え切れなくなって父親が殺したというものだった。この事件の背景に、家庭でのしつけ、学校の教育、マスコミのあり方に問題がなかったのか。
 戦後、核家族化が進行して、親・子・孫という世代間の知恵の伝承、年長者から年少者へのいたわりの気持ち、さらには家庭内および地域社会においての人と人との絆みたいなものが絶ち切られ、そのことが、このような悲劇を招いていると私は見ている。
 現在、介護保険制度の成り行きが注目されているが、本来、大家族制度の中で、親が子を、長男が弟の面倒をみて、お互いに助け合い、いたわりながら家族、地域での連帯感の中で暮らすのが昔の日本のよさであった。しかし、戦後、平等社会の実現、産業優先で均質な労働力をつくり出すための教育が重視され、それにより大学へ、大企業へと都市人口集中に拍車を掛けた結果、家族が引き裂かれ核家族化が急速に進み、大家族制度は崩壊した。

 夫婦共働きとともに、子供が生まれるとその子は親の暖かみも受けられずに乳児院から託児所へと預けられ、その後幼稚園、小学校、中学校、高校と何の疑問も持たず進み、大学は首都圏、大都市圏に所在する学校に憧れ、勤務先は大都市に本社を持つ一流企業をめざすというレールの上には、大家族で暮らすという道は、完全に閉ざされてしまったといってよい。そして、年を取れば、老人ホームに入り、介護保険の世話になるという図式がいやがうえにも見えてくる。
 しかし、果たしてそう上手く事は運ぶものだろうか。そもそも保険制度は、本来は10人、百人が負担して1人を扶養するという発想で生まれたものである。それが、高齢化社会の進行と少子化現象で、3人で1人を扶養したり2人で1人を扶養しなければならなくなることが予測される今、もはや保険制度は成り立たない問題である。
 そう考えれば、やはり「大家族制度の復活」が求められることとなろう。そのためには、地方がその地域地域に、他に誇れるような風土・環境を創造して、若者を引きつける魅力を持つことに尽きる。優秀な大学に入るために都会に出るならともかく、大してレベルが変わらない大学に入学するのに、わざわざ首都圏や関西圏に出向くということがないように、地方の大学が特色と個性を持つことも大事だ。また、一流企業ではないが、地域に根付き、地元社会に貢献する企業が地方に多く存在することを気付かせる努力もすべきだろう。そして、最も大切なことは、地方が、面白みのない都会の縮小版にならないように、地方独特の、そこにしかない魅力を構築することである。

 そうすることで、その土地で生まれた人は、その土地を誇りに思い、その土地の学校に通い、その土地の企業に就職し、親と子、孫が一緒に住まい、同じ価値観、人生観を共有していけるのではなかろうか。大家族制度の下では、鍵っ子は存在しなく、独り、テレビのワイドショーに釘付けになり、それが社会のすべてという勘違いもせずに済むだろう。もちろん、孤独な晩年、介護病院での死を迎える恐れもない。さらに、年長者が年少者に見せるいたわりとしつけ、知恵の伝承、家族間の交流、地域社会の絆を通して、人との付き合い方を学ぶことにより、いじめ問題も減るのではなかろうか。
 こう考えれば、公的介護保険制度はいずれ様々な欠陥により破綻を来すに違いない。そんな施策に期待を寄せるよりも、人の温もりをいちばんに感じる「大家族制度への復帰」を叫びたい。その手助けとして、ウサギ小屋と言われる住まいに核家族がそれぞれ離れ離れに住むのではなくて、一つ屋根のもとスープの冷めない所で、それぞれプライベートを尊重しながら助け合って住むマンションとか、大家族で過ごせる大型の家に皆が住めるように住宅税制を改正することを求めたい。それとともに、官業による民業圧迫ともなる住宅金融公庫や住宅公団などの矮小で均一な一世帯一住宅を掲げての住宅制度も改正すべき時期にきているのではなかろうか。