藤 誠志エッセイ
バランス・オブ・パワ−


 核兵器の使用・威嚇が国際法に照らして違法かどうかについて、国連総会から勧告的意見を求められていたオランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)が、先日、「核兵器使用・威嚇は紛争に関する国際法、人道に関する法律の原則に一般的に反するが、国際法の現状と当法廷が把握できるかぎりの諸材料に照らすと、国家の存亡に関わるような極端な状況での核兵器による威嚇や使用が合法か違法かについては、決定的な結論は出せない」とする意見を示した。
 唯一の被爆国である日本の国内では、この自衛目的での核兵器の威嚇・使用の判断回避に対して、希望が裏切られたという報道が多くを占め、国民の間に失望感が広がった。オランダ・ハーグの国際司法裁判所の前には、世界各国の法律家が集めた 核廃絶を願う365万人分の署名 が積み上げられたというニュースが話題となったが、その内の333万人分は日本の団体が集めた署名であったという事実が、今回の各国の関心度を如実に物語っているようで興味深い。
 すなわち、署名の9割以上が日本から集まったということは、欧米における関心が日本に比べて非常に低かったということである。それが証拠に、日本の新聞・テレビが国際司法裁判所の判断を大々的に取り上げたのに比べ、欧米での取り上げ方は小さく、普通のニュース扱いであった。もちろん、「勧告的意見」の名の通り、この司法判断は法的な拘束力を持つものではなく、これによって核兵器が禁止になることもなければ、核の使用に免罪符が与えられるものでもない。こうした背景があるがために、他国はそれほど大きな関心を示さなかったとも言えようが、やはり、日本人とは 平和についての考え、意識 が根本的に異なることが反応の差の最も大きな理由ではあるまいか。
 その違いとは、「平和は力で守るもの」、すなわち『力の論理』である。この論理は、「平和、平和と闇雲に唱えていれば、それが自ずと叶えられる」という認識が強い日本人には、なかなか理解しにくいところである。戦後、日本のマスコミや評論家、さらには知識人と呼ばれる人の中には、憲法第9条を堅持すれば、平和は維持できるという夢物語を信ずる人が多い。
しかし、核兵器に限らず、毒ガス兵器や細菌兵器もジュネーブ協定で禁止されているにも拘らず、イラクが国内のクルドゲリラ掃討戦において使用したように、使用しても反撃的に使用されない時に限り使用されるわけで、世界各国においても絶えず研究され貯蔵され続けていることは既成の事実である。前の湾岸戦争ではイラクが毒ガス兵器の攻撃を仕掛けてくるのではないかということで、近隣諸国や多国籍軍に凄まじい脅威と恐怖を与えたことは未だ記憶に生々しいが、結局使用されなかったのはこの論理の帰結するところである。
 核兵器開発の歴史を振り返れば、それは、東西冷戦下で 核攻撃すれば核で攻撃されるぞ という 恐怖の均衡 という核抑止効果によるものであり、核兵器の量と質のバランスと拡大の歴史であったとも言える。こうした 恐怖の均衡 があったからこそ、核戦争が回避できたのであって、憲法や条約、協定だけでは紛争を抑止する切り札にはなり得ないというのが、平和維持に対する世界的な常識であることは言うまでもない。
 そして現在、世界の流れは、ようやく包括的核実験禁止条約(CTBT)の最終妥結や、交渉が滞っている軍事用核物質生産禁止条約の推進、さらには米ロ間の第2次戦略兵器削減条約(START2)の発効など、米ロや世界各国の血のにじむような努力を通じて、核廃絶に向けて歩もうとしている。
 こうした気の遠くなるような平和への道程を、多大な時間と労力を費やして着実に一歩ずつ前進することができるのも、現実的な力の論理を把握していればこそ、と思うのだが、日本国民の多くは、憲法と条約、さらには国際司法裁判所の判断がすべてと考えているように、私の目には映る。厳しい見方かもしれないが、一旦開発された技術は何であれ、これを廃絶できるものではない。よって、いかにこの技術と共存するかを考えるべきで、核の廃絶はなかなか難しい。まして、一片の憲法や、条約、司法裁判所の判断だけで、平和がやってくると信じているならば、それは お伽話 でしかない。
 現実に、一旦戦争が起きれば、その日を以て平和条約は紙屑のように反古にされるだろうし、毒ガスや細菌兵器は国際法違反と言ったところで、攻撃されればそれを防がねばならない。そうなれば、独自のあるいは条約に基づく軍事力の均衡、核の抑止効果が、自国の防衛にとって不可欠なことは如何ともし難い。
 そう考えれば、国際司法裁判所が「自衛目的の核保有、使用、威嚇について、軽々しく司法判断を下せない」としたことは至極当然で致し方のないものと考える。
 こうした白黒の付かない司法判断に対して、弱腰だ、核保有国に支配されていると非難する評論、意見が日本のマスコミを中心として騒々しいが、日本の近隣国を見渡しても、中国は、かつて ズボンを履かなくても核兵器を保有したい と宣言し、多大な労力を費やして核を保有し、今もまた世界の世論の反対を押し切って核実験を続行している。また、近年は餓死者が続出していると言われるほどに経済が疲弊している北朝鮮にしても、未だ核兵器開発を断念した兆候は見られない。中国にしても、北朝鮮にしても、核カードをちらつかせることで、米国、韓国、日本との関係を自らに有利なものに推し進め、援助を引き出そうという狙いがあるのは明らかと言えよう。
 実際、ここに来て、日本近海においても南沙諸島や竹島問題のように、海域や領土問題で軋みが生まれつつある。もし、紛争ともなれば、いくら平和的意見を何万遍唱えたところで、島や領土を不当に占拠されてしまい、どうしようもなく、すべて後の祭りということになる。
 やはり、力の現実を国民の一人一人が理解し、平和を一方的に唱えるだけではなく、常に有事に備えて警戒心を持ち続けることが、本当の平和を維持する鉄則であると言わざるを得ない。戦後50年に亘って、日米安保条約のもと、ひたすら 漁夫の利 を得てきた我が国も、冷戦が終結した今、これまで通りの一国平和主義と、現実とかけ離れた憲法を振りかざして、「弱さを武器に戦う」ことで平和を期待できない現実を悟り,、近い将来、おそらく5年以内において、朝鮮半島が統一され、その統一朝鮮が核付きで反日的であった時の現実と、核をもって分裂し内戦が始まった時の中国の悪夢をそろそろ考える時期に来ているのではなかろうか。人権問題を考えると異論もあるが、朝鮮半島の南北分断の現状が日本の国益にかなうものならば、食料援助などを通じて北朝鮮の早急な崩壊を防ぐ必要がある。そして、それが日本の安全と平和にプラスすると理解すべきだ。極端から極端へ走る国民性ゆえ、日本が軍事大国となり核武装に走らないためにも、不毛な憲法論議を卒業し、55年体制下では不問に付されてきた「軍隊ではない軍隊」自衛隊の法的認知と有事法制の整備を図り、独立国としてバランスのとれた軍事力を整備し、安全は政治の最大の責任であることを政治家は肝に銘ずべきだ。