藤 誠志エッセイ
18日間世界一周の旅。


開会式の素晴らしい演出に感動
 24年前のモントリオール・オリンピックの開会式を皮切りに、今回で5回目となるシドニー・オリンピックの開会式を現地で観る機会を得た。毎回、世紀の祭典ともいえるオリンピックの開会式の、その華やかさと賑わいには刺激を受けるが、とくに今回のシドニーの参加型の演出には感動した。
 国土は日本の22倍と広大だが、国民の数は日本の約7分の1に近い千八百万人という国が、あれほどのすごい演出をやってしまうことに瞠目した。過去の大会と比較してもまったく遜色がない。いや、これほど素晴らしい開会式はかつてなかったといってもいいだろう。
 その感動と興奮、共感の余韻さめやらぬ翌日、柔道で田村亮子、野村忠宏両選手の奮戦を目の前で見、しかも金メダル獲得の瞬間に立ち会えたことは非常に幸運だった。日本がシドニー・オリンピックで手にした5個の金メダルのうち、その2個に1日で巡り合えた感動は決して忘れることはないだろう。
 ただ、こうした開会式と柔道競技での感動とは裏腹に、開会式における日本選手団のマント姿は現地に住む日本人には不評だったようだ。その一人で翌日にディナーに誘われた長年この地でワイナリーを経営している友人も、場違いな感じを拭えなかったと言っていた。さらに、マントだけが不自然に目立った分、日本選手団の参加人数の見劣りが引き立ってしまった。晴れの開会式だから参加したかった選手が多かったとは思うが、試合の近い選手を監督の過剰な配慮で控えさせたせいか、何か盛り上がりに欠ける日本人選手団の姿が、今の日本の現状を物語っているかのようで、私は一抹の寂しさを禁じ得ることができなかった。
 一方、当日最も話題と注目を集めたのが、南北朝鮮が半島旗を掲げて一緒に入場行進をしたシーンである。鳴り止まぬ拍手が会場に響き渡るのを肌身でひしひしと感じて、世界の人々の南北朝鮮の緊張緩和にかける期待の大きさを窺い知った。が、昨年の不審船の侵入に頭越しのテポドン発射、核開発疑惑やかつてのラングーン事件、大韓機爆破事件、日本人拉致事件などが脳裏を掠める私にはどうしても素直に喜べず、複雑な思いで、そのシーンを眺めていた。
 その後、オリンピックの熱気がなお漂う先日、南北緊張緩和の一方の当事者である韓国の金大中大統領がノーベル平和賞を受賞した。その報道に触れて奇異な感じを受けたのは私だけだろうか。自分の倅ぐらいの年齢の北朝鮮の世襲独裁者の金正日総書記の言いなりになっての会談で、その見返りに大変な額の経済援助を約束させられたことは容易に予測される。日本もそれに巻き込まれて、50万トンもの米の支援の表明をさせられたのはつい先日の出来事である。韓国にしても、米国にしても、選挙を意識しての緊張緩和演出に過ぎないことは明白で、少数与党を率いる金大中大統領は次期選挙での安泰を、クリントン大統領は自らの後継者たるゴア氏の当選を模索しての結果が、つまり今回の南北融和であるということだ。
 自らの政治的利害のために、南北の緊張緩和を演出し、東西ドイツ合併の西独の轍を踏まない為にもその費用を日本に負担させようという意図は見え見えだ。私から見れば、南北統一のコストの大半を日本の資金を使って賄おうとするなど言語道断である。日本は決してこうした動きに軽々に迎合すべきではない。
 新しい市場としての魅力はあれど負担の恐れのない欧米の世論に翻弄されることなく、日本は最後に堂々と主張を通して賛同すべきである。今回の急速な欧米の国交樹立の方針を一番戸惑っているのは体勢の維持に腐心をしている金正日その人かもしれない。
 日本は拙速に米国や韓国の口車に乗せられて、禍根を残すことのないように、過去の西洋列強による植民地支配とその後の例や歴史的な経緯をしっかり踏まえて、慎重に事を進めるべきであることは言うまでもない。
 金大中氏のノーベル平和賞受賞など想像だにしない中、柔道の2個の金メダル獲得の瞬間に出くわした感激に酔いしれたまま、私はサッカーの日本対スロバキア戦が行われるキャンベラまでレンタカーを走らせた。キャンベラは人工的に造られた首都で、その美しさには定評がある。期待にそぐわず、その美しく広々とした街でのサッカーの試合観戦は天候にも恵まれ、日本も勝利を収め、最高のオリンピック日和となった。
 その後ブラジル戦の行われるブリスベンまで馳せ参じたが、残念ながら今度は惜敗してしまった。しかし、日本サッカーチームの強化ぶりには目を見張るものがあり、2002年のワールドカップでの活躍は大いに期待できると実感した。観戦後は近くのゴールドコーストのホテルに泊まり、早春のちょっと肌寒い海水浴も体験した。
レンタカーでスエズ運河を目指す
 そのオリンピックの感動を胸に、私は次の目的地エジプトに向けて機中の人となった。シンガポールとアラブ首長国連邦のドバイを経由して約一日がかりのエジプト入りであったが、途中のドバイ空港では産油国の豊かさを見せつける立派な空港施設には驚かされた。
 エジプトは今回で3度目の訪問となる。1度目はもう20年も前。当時は中世の趣が漂い、猥雑な中、人と車と馬車が行き交う街だった。バスは寿司詰め状態、窓にぶら下がるようにステップに乗っている人も多くいた。5年前のラマダンの断食月にも一度来たが、そのときはイスラム原理主義のゲリラが観光客を襲うという物騒な国になっていた。最大の収入源である観光収入を減らそうと、過激な原理主義者のテロが横行していて、観光バスの前を護衛の車が先導するという物々しさに閉口したものだ。今回は背広の内に短機関銃を隠し持った護衛一人がバスに同乗するだけだった。原理主義者のテロ行為も少しは鳴りを潜めたということだろうか・・・。
 私は早朝のカイロ空港からレンタカーを借りてホテルに向かった。今でも警笛を鳴らしあう喧騒で人と車と馬車が犇めき合うカイロではなかなかレンタカーを借りる人がいないらしく、私の借りたレンタカー事務所で、私はなんと3日ぶりの客であった。韓国製の古いボコボコの車を借りたものの、普通は満タンで貸し出すレンタカーのガソリンタンクはなぜか空っぽ。ガソリンスタンドに寄って給油しないと、ホテルまで行き着けない。どうにかスタンドを探して、持ち合わせの小銭で給油することにしたが、わずか20エジプトポンド、日本円で600円程度しかなくこれで果たしてホテルに行き着くために必要なガソリンが買えるのか心配したが、20リットルも買えて、流石に安いと感心してしまった。
 ホテルで一泊した翌日、過去2度の訪問ではいずれもアブ・シンベル、アスワンにルクソールとナイルの上流ばかりで今度は今まで行かなかったスエズ運河に行こうとコンシェルジェに道を訪ねた。返事は「危険だから止めたほうがいい」というアドバイス。その制止を振り切って、カイロから130km離れたスエズ湾を臨み、スエズ市からスエズ運河に向かった。途中、観光収入と並んで2番目に重要な収入源であるスエズ運河の運行収益を守るために、ゲリラに対しての警戒態勢を敷く10ヵ所に近い検問を無事通過、途中、グレートビター湖を横目に見ながらスエズ市から80km北方にあるイスマイリアを目指した。エジプト第3の都市イスマイリアの運河沿いのプライベートビーチを持つリゾートホテル「メルキュール」で食したランチの味は最高で、ヨーロッパの香り一杯の美味しさは今も思い出すほどだ。ただ、スエズ運河を眺めながら、美味しいランチを堪能したものの、スエズ一帯は砂漠のど真ん中、42〜43度の凄い暑さには流石に参った。 
外国に行く度に日本の有り様を憂う
 その後、イスマイリアからは高速道路で100km走ってカイロに戻ったが、あちらの高速道路は無料で何処からでも車が入ることができて便利だが、多くは車線が引いてなく、空いている所を勝手に走るものだから、ときたま反対側から走ってくる車に出くわしビックリした。ギザのピラミッドやクレオパトラで有名なアレキサンドリアにも出かけ、エジプトの古代から現在までを十二分に満喫した後、エジプト航空で再び空の旅。約5時間の飛行でパリのオルリーに降り立った。
 パリから二百km離れた大西洋側沿いの高級避暑地ドーヴィルへ今度は高級車のベンツを疾走させた。ノルマンディホテルで泊まり、カジノを愉しみながら美味しいフランス料理に舌鼓を打ち、翌日からジャンヌ・ダルクの火刑地ルーアンや画家や詩人のお気に入りの港町オンフルール、Dデーで有名なヨーロッパ最大の激戦地ノルマンディーを訪れた。記念館には米国人や英国人の観光客が多くいたが、日本人は私ぐらいなもので、75、6歳ぐらいの男性が感慨深げに佇む姿が印象的で、おそらく参戦した当時を思い出していたのだろう。激戦の地オマハ海岸や米軍兵士の墓地も訪ねたが、その無数の墓標が激戦のすごさを今も伝え、真摯な気持ちになり、多くの戦死者の方々の冥福を祈った。
 その後、雨の中を一路パリに戻った。パリはこれまで既に二十数回訪れた街で、夕暮れの小雨のシャンゼリゼを走り、凱旋門を仰ぐと、我が家に帰り着いたようなホッとした気分になった。懐かしい店に顔を出し、サントノーレでの買い物で折からのフラン(ユーロ)安を満喫し、セーヌ川クルーズにソルボンヌ大学、ノートルダム寺院、ヴァンドーム広場、エッフェル塔、ルーヴル美術館、ベルサイユ宮殿などを訪ね、久しぶりにヨーロッパの都パリを満喫した三日間であった。私はこれまで五十カ国以上を旅してきたが、外国に居る時はいつもそうなのだが、心に思うことは祖国・日本のこと。外国に長く住む日本人と「今の日本の有り様」について話すと、決まって「日本の将来」を考えさせられてしまう。
 オーストラリアしかり、エジプトしかり、フランスしかり。外国を旅する毎に、平和と繁栄が力を背景に保たれていることを痛感させられる。未だに自虐史観にさい悩まされて「半植民地的半独立国」に甘んじている日本との違いを、まざまざと見せつけられる。
 冷戦が終焉して10年、21世紀がすぐそこに迫り来る今日、「正しい歴史観と世界観の下、自国に誇りと自信の持てる力の論理に立脚した国づくり」を早急に進めなければならない。
 今回の旅はそういう危機感を一層感じさせる旅でもあり、18日間に及ぶ南半球から北半球をぐるりと回る日程と地球一周に匹敵する約4万kmの飛行に、延べ3000kmをレンタカーで走破したことは、一段と私の歴史観と世界観を磨く糧となったことは言うまでもない。