「統治」から「協治」へ 小渕恵三首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会が、「日本のフロンティアは日本の中にある」と題する最終報告書を首相に提出。その提言要旨が全国各紙の一面に詳しく掲載された。私は全文を読んだわけではないが、「統治」から「協治」へ、たくましく、しなやかな個の確立など、私にすれば、真意が理解できない言葉が並べられていて面食らってしまった。「協治」はおそらく造語の類になるのだろうが、東西冷戦の終結宣言がなされて10年の歳月を経た今も、ますます民族・宗教・国境をめぐる争いが頻発し、北東アジアに於てはまだイデオロギーに基づくミニ冷戦が行われている中、統治から協治とはあまりにも楽観主義的である。協治する社会とは自己責任で行動する個人と様々な主体が協同して新しい個を創出する社会と定義づけしているが、それで徴税と国防、外交と内政、国民の生命・安全・財産の擁護に対する機関はどうなるのか、私にはこの協治という言葉が全くナンセンスで理解できない。 共産主義社会がかつて求めた一種のユートピアと同様に、そうした社会が実現したならば、おそらく大混乱を招くことは必至である。さらに、「協治」以外にも、報告書の中には首を傾げたくなるような提言が数多く見当たる。 例えば、初等中等教育を週3日とするというものは、何を意図して提言しているのか、同じように、「英語を第二公用語に全ての人に義務づける」というのも馬鹿馬鹿しい提言と言えよう。日本では、中・高校の6年間に亘って英語教育を受けながら、英語が話せない人が大半という変な国である。要するに教え方に問題があるのであって、英語を教えている教員の英語が英語圏でまず通じない程度なのだから、教えられた生徒達の英語が通じるはずがない。 ヒアリングよりも、読み書き文法ばかりに時間をとり、単語の暗記に神経を集中する。私はかつて中学2年の時、英語の先生に対して、「英語はアメリカへ行けば3歳の子供でもしゃべれ、単なる語学で、学問をするための手段であっても目的ではなく学問のうちには入らない。そのうちに日本語をしゃべれば英語で出てくる機械ができる」と言い放ち先生を泣かせてしまったことがある。しかし、学問とは本来、真理を探求するものであって、決して単語を暗記するようなデジタル記憶容量を増やすものではないはずだ。そうした信念が前述の暴言になったものだが、英語はまず日常会話が大事であり、そのためにも英語を母国語とする国で教育を受けた教師のもとで学習ができるようにすべきである。さらに、英語に慣れるという意味から、社会や理科、数学などの教科書に日本語と一緒に英語を併記するというのも効果があるのではないか。日本語と英語が同時にいつも目に触れるようにすれば、自然と身に付くことになろう。 英語も大事であるが、英語をマスターするためには日本語をしっかり勉強することがなお大事であり、世界で最も微妙なニュアンスを伝えることができる、素晴らしい言語である日本語の敬語も話せない人が増えつつある中で、英語を第二公用語として強要し、全ての公文書に英語を付記しようとすることには疑問を感じざるを得ない。 機会と結果の平等のはきちがえ 「選挙権を18歳に、議員定数の定期的自動修正」の提言もいかがなものか。かつて、選挙権は一定の納税義務を果たした人だけにしか認められなかった時代があった。そこまでは言わないまでも、高額な納税を果たす人も、税も払わずに税による教育や保護を受けている人も、同じ1票というのは、果たして平等と言えるのか。戦後の平等社会が造り出した弊害がここにもある、と私は常々思ってきた。機会の平等を結果の平等とはきちがえ、すべての人は何事にも平等であって、平等でないことや抜きんでた者へ「やっかみ」と「ひがみ」を浴びせかける社会になってしまったのは残念で堪らない。 アメリカンドリームという言葉があるように、成功者を讚え、自らも見倣って成功しようとするアメリカ社会のように、夢と希望のある社会を築いていかなければならない。納税によって社会や国家に貢献することに誇りを持てるように、単に選挙権を18歳以上の国民全てにと一律に引き下げるよりも、今の欠陥だらけの選挙制度を全て単純小選挙区制度に改めるとともに、選挙権は18歳以上の人に1票、所得の10%以上の納税者はもう1票プラス、さらに30%以上の高額納税者にはもう1票プラスで計3票というような累積投票制にするとかして、国民が納税の義務と納税者の権利により一層大きな関心を持つような政治制度に改革を図ったらどうか。衆議院や参議院などの国会議員の定数も大幅削減をし、衆・参議員をそれぞれ100名程度に思いきって削減し、また県・区・市議会などの地方議会の議員も大幅に削減すべきであり、十分にディベートができる20〜30人程度に削減することが望ましい。 一方、議員は広く国民から選ばれて政治を任せられる選良であるのだから、経験豊富で少なくとも5年以上連続一定額以上の納税者にのみ被選挙権を与えるとともに、選ばれた議員はそれに相応しい敬意と称賛・報酬を与えられるべきである。税金で歳費を貰っているからと、ちょっとした贅沢も許さないという今のマスコミの風潮も問題である。議員となって、国家、国民、国益のために働くプライドや意欲を損なうことのないように、秘書も伴って胸を張ってファーストクラスやグリーン車に乗れる社会を作るべきだ。 多くの人の中に少数の金持ちがいるから金持ちと言い、大衆の中に小数のエリートがいるからエリートと言うわけで、金持ちやエリートをやっかみとひがみの目で見るのではなく、自らもそれを目指して努力をすべきである。あまりにも平等な社会を目指しすぎると、上下関係もなくなり、先生と生徒も平等、社長も社員も平等、議員も有権者も平等となってしまう。財閥解体・農地解放・高相続税制・高累進所得税で平等社会を目指してきた戦後のこうした諸制度が、平等をはき違えさせてきてだんだん世の中の活気をなくしてきた。このままでは、いずれは日本は三流国家に転落への道を辿ることになる。 国の基本は教育にある こうした「21世紀日本の構想」の個々の提言に対して苦言を呈する私だが、やはりこの報告書を見ていて痛感するのは、国の基本は教育にあるということである。現在の日本の教育制度は、記憶力重視の偏差値教育と自虐史観に捕われた歴史教育であり、自らの民族や国家に誇りが持てない情けない教育を続けている。学級崩壊、不登校、いじめ、家庭内暴力、凶悪犯罪の低年齢化など、教育の荒廃は目を覆うばかりである。 もっと教師の処遇を良くして、気力・体力・識見に優れ、志が高く、その学年で最も優秀な人が教師を目指す社会を作り、生徒に素晴らしい国家と民族の歴史と未来を説く教育を施せるようにすべきではあるまいか。夢と希望を与え、楽しい授業、楽しい学校にすれば、学問に対する興味が溢れて出てくるに違いない。真理の探求に情熱を燃やせば、インターネットや図書館での自ら率先しての勉強にも熱が入ろうというものだ。 こうした教育改革で21世紀を担う人づくりをするとともに、そうした人達が夢を持って活躍できる本当の意味で公平で機会の平等を保障した環境を提供していくのも、我々の義務である。現在、国が関与する部分が多くなりすぎていて、集めた税金の分配を通じて、次の選挙への票集めに地元に公共事業をばら撒くことが政治家の仕事となっている。早急に大幅な行政改革と規制緩和を実行し、小さな政府の実現を図り、行政・官庁・公社・公団の民営化を図るべきであろう。 道路公団を槍玉に挙げるわけではないが、世界一高い通行料をとって毎年補修をしなければもたない道路を作り、天下り先の子会社や関連会社に毎年補修工事を高額で発注する図式は、そのまま日本の非効率談合癒着社会そのものである。こうした政・官・業の馴れ合いを改め、公的業務のほとんどを民営化して市場経済原理に委ねるようなカタチにすれば、役所は少人数で済み、税金垂れ流しの非効率はなくなるはずだ。役所の民営化がいかに効率化とサービスの向上に効果があるかは、国鉄と電電公社の民営化を見れば一目瞭然である。 中身の薄い見かけ倒れの提言書 今回の提言の中で「開かれた国益を求める」という言葉の意味も理解しかねる。国益とはそれぞれの国の固有のもので、これは中国や韓国の唱える「歴史観の統一を図るべきだ」と同様で、かつて独立国でその国の歴史観が隣国の歴史観と一致した例はない。 また、アジアと新しい関係を築き、ハングル学習を奨励するとか、多国間協議体制を形成し日韓中の隣交が不可欠などの提案にも疑問を感じる。中国の現状は、政治は共産主義独裁体制で、経済は資本主義市場経済社会と一致していない。しかも、言論や宗教の自由も制約され主権も国民にはなく、台湾併合を声高に唱えている、そんな国家と親密な関係を唱え、中華民国(台湾)を無視して良いのだろうか。 今回の「21世紀日本の構想」は、私にはいろいろなものを一つの袋に大急ぎで詰め込んだ、内容のないもののように思えるが、いかがなものだろうか。日本の過去を総括し、正しい歴史観と国家観を持ち、現在の世界情勢を十分に認識した正しい世界観を持ち、それらに立脚した上で未来展望を図った提言であるべきなのだが、どうもイマイチの提言になってしまっている。私が思い描く「21世紀日本の構想」とはかなり異なるものであることは言うまでもなく、しばらくすればすぐに忘れ去られる、真空総理の求めるあっけない構想倒れの提言と言わざるを得ない。 |
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